いよさんの見当識
2月3日の毎日新聞の「介護の言葉 三好春樹」という記事に興味深いことが書かれていた。「見当識」という言葉を聞いて、いよさんはまさにこれだと思った。
ここはどこか、今はいつか、私は誰でなぜここにいるのか、というのを見当識または見当感という。これらがわからなくなると「見当識障害」と呼ばれ、認知症では「中核症状」であるとされている。
このあってはならないとされている見当識障害の中身を見てみると、これが興味深い。老人たちは過去の時代にいると思いこむのだが、その時代とは自分がもっとも自分らしかったころらしいのだ。大変だったけれどやりがいのあったころ、まわりから頼りにされていた時代に戻るのだ。
彼らは今の自分、つまり年をとり、物忘れをし、人の世話を受けている自分が自分だと感じられないのではなかろうか。そこでもっとも自分らしかった時代に心の中で戻ることで、自己確認をしようとしているのではないかと。
年をとり物忘れもし人の介助を受けているけれど、自分はまぎれもなく自分であると思えれば過去に帰らなくてもいいはずだ。その“今”を作ることが介護である。
90歳のいよさんの現状はまさにこの「見当識障害」であろう。いよさんは今いるここが自分の家だとは思っていない。なぜここにいるのかわからない。だからいつ自分の家に帰るのかを問いただす。
そして彼女の意識はある過去の時点に戻っている。その時代は、ひとつは自分が女学生だったとき、姉と一緒に生活していたとき。しばしばその姉さんが話しの中に登場する。わたしの妻を姉さんと間違える。
もう一つは、子ども4人を育てるのに一生懸命だったとき。食欲旺盛な子どもたちのご飯を炊いていたころ。彼女の心配のタネはいつもごはんのこと。お米が米びつにないのではないか、朝ちゃんとご飯が炊けているのか………。貧しかったけれど大変だったけれど、彼女が一番彼女らしかったのはこのときだったのだ。
この見当識障碍が現れたときに、それを否定するよりも一緒にその時代にさかのぼってその時代のことを思い出すということの方が本人に混乱を来さない。としたらやはり、そこに一緒にさかのぼって、彼女の自分史を語らせる方が本人には幸せなのかもしれない。