Finding Faith amid Disaster(悲劇の中に信仰を見出す)
友人のカトリック学校の「宗教」の教員が同僚から「あなたはカトリックでしょう。神様は今回の大災害をどう考えているのか。」と、休憩室で唐突に聞かれたそうです。その時友人は答えに窮し、とっさにその答えを見つけられませんでした。
このような大災害も神様のみ摂理(みむね)なのですか?
神様のご計画の内に含まれているのですか?
愛である神様がどうしてこんな不幸を人間に与えるのですか?
こういう疑問を持ってしまうのは当然です。わたしも神に向かって叫びたくなります。
それで、この前震災の前ですが、「心のともしび」の「死者を偲ぶ」というシリーズの「死後の楽しみ」の話しの中で次のように述べてしまいました。
(死んでからの)最大の楽しみはイエスにも神さまにも直接お会いすることができるということです。お会いしたら、まっさきに聞いてみたいことがあります。それは、 この世界に、貧困や差別、災害や戦争などの不幸な出来事がどうしてこんなにたくさん起きるのかということです。
あ、これ読んでみてください。けっこう気に入っています。
ところで、私はアメリカの Digital CatechesisというカトリックSNS のメンバーなので、ときどきそこからニュースが送られてきます。これについてはまたあらためて紹介することにしましょう。
そこをきっかけにしてネットサーフィンをしていたら、こんなサイトを見つけました。
「Finding Faith amid Disaster 悲劇の中に信仰を」というテーマの記事が書かれていました。
それは“How could God let this happen?”「なぜ神はこのような悲劇を起こさせたのか?」という問いかけにいろいろな宗教者たちがどう答えているのかをリストしています。
クシュナーはユダヤ教のラビです。この人の「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」という本はとても興味深い本です。
私のブログでも登場したことがあるベトナム人仏教者のティクナットハンの答えです。かれはこの5月に来日します。
日本人の仏教者釈 徹宗氏も紹介されています。
北米のイスラム学者の Sayyid Syeed という人は「神の与えた試練」だというのですね。
プロテスタントのSam Harris というかたは、「これもみな神の計画のうちである。人生にたまたまおきた事件というのはない」という考え方を stupid で callous (硬直した無感覚な)であると言っています。
ビリーグラハムの息子のフランクリン・グラハム氏も「神はこのようなことが起こることを望んではいない」とはっきりと述べている。
ところで、カトリックではイエズス会の James Martin 神父が見解を述べている。
「この問いかけに満足する答えは得られないだろうというのである。ただ言えることは神は苦しんでいる人びとと共にいるということだ。」マルティン神父のこの答えがカトリックらしいなとおもわせるもので、やはり私が好きな答えである。
くわしくはこのブログをぜひご参照あれ。