懐かしき未来 −ラダックから学ぶ
ラダックで私が見たものは、廃棄物も汚染もなく、犯罪は事実上存在せず、地域共同体は健全で結束力が強く、十代の少年が母親や祖母にやさしく愛情深く接するのに決して気後れすることのないような社会であった。そうした社会が近代化の圧力のもとで解体し始めているとき、この教訓はラダックを越え、意義を持つ。
ラダックの人びとは伝統的にすべてのものをリサイクルしてきた。文字通りのゴミというものは存在しない。ごくわずかの資源しか利用出来ないなかで、農民は完全に近い自立した生活を実現してきた。外部の世界に頼るものといえば、塩、茶、調理器具と工具だけであった。
ラダックの人びとは単に生存するということ以上の暮らしを楽しんでいる。基本的な生活用具しかもっていないことを考えるとこれは驚くべき成果である。
私たちが大型の機械に頼る作業の多くを、ラダックの人びとは家畜の力とチームワークで行っている。しかもどの仕事にも歌がつきものである。
ラダックの人たちはそれぞれの仕事を成し遂げるのに、ほんの簡単な道具だけを使い、とても多くの時間をかける。にもかかわらず、彼らにはありあまる時間のゆとりを持っている。彼らは穏やかなペースで仕事をし、驚くほどの余暇の時間を享受している。
時間はおおざっぱに計られ、分単位まで数える必要は全くない。
仕事と遊びの間にははっきりとした区別がない。
驚くことにラダックの人が一生懸命に働くのは一年のうち四ヶ月ほどである。この間は実によく働く。八ヶ月の冬の間は、食事を作り、家畜にえさをやり、水運びをしなければならないが、仕事はほんのわずかである。冬の間はほとんど祭や宴で過ごす。冬はまた物語を聞かせるときでもある。
ラダックの人びとは、幸福感、生命感、精神力にあふれている。体つきはみな均整が取れていて、健康的である。
老人は死ぬその日まで活動をしている。
ストレスをほとんど感じることなく、心の平安を維持している。
伝統的にラダックでは人を攻撃することはいかなる種類のものでもきわめてまれである。
私たちはお互いに一緒に生活しているんだ。「自然発生多岐な仲裁者」の存在。
貧富の格差はごく小さい。
社会的規模の小ささ。ほとんどいつも顔と顔の見える間柄でやりとりされている。
個人の善が共同体の善と矛盾しない社会。ある人の利益は他の人の損失を意味しない。家族、隣人、他の村の人や見知らぬ人まで、他人を助けるのは自分たちのためだと考えている。競争ではなく、相互の援助が経済をつくっている。相乗効果の社会である。
ラダックでは一妻多夫婚である。妻は両方の夫に同じように接している。ラダックの人口の相対的安定性をつくり出してきた。結婚しない女性は尼僧になる。しかし一夫多妻婚もある。
ラダックに来て最初に印象に残ったことのひとつは、おおらかでのびのびとした女性のほほえみであった。女性は自由に動き回り、開放的で、人目を気にせずに男性と冗談を言い、おしゃべりをしていた。女性は自信を持ち、しっかりした性格で威厳を漂わせていた。性の差は否定されることはないが、その差を強調する度合いは西洋よりも小さい。たとえば男女の名前が同じこともよくある。女性は知恵の象徴であり、男性は慈悲の象徴である。
仏教だが、ヒンズー教、イスラム教徒、キリスト教と共存。互いに心から尊重しあい、気さくで寛容に満ちていた。通婚もあり、関係を強化する役目を果たしていた。祝日にはすべての宗教の人たちが招かれていた。
大乗仏教の「空の哲学」
あらゆるものは、相互に依存する関係からおこるという法則に従って存在している。
自己が独立して存在するという錯覚が、悟りに通じる道のおそらく最大の障害になっている。絶対かつ永遠の存在を信じる限り、果てしない欲望の循環に行き着き、欲望は苦難をもたらす。自己や物事が独立して存在するという考え方に執着するため、懸命になって常に何か新しいものをも富めあぐねることになる。求めていたものを手にするや、その輝きは失せ、つぎの違ったものをもとめ始める。満たされることはほとんどなく、またつかの間のことに過ぎない。満足は永遠に得られない。
ラダックの人には、押さえきれない生きる喜びがある。喜びの感覚は彼らの内部にとても深く息づいているために,まわりの状況によって揺らぐことはないようである。
ラダックの人が見かけ通りに幸せだとは、最初、私は信じられなかった。私は目にした笑顔が心の底からのものであると言うことを受け入れるのにかなりの時間がかかった。
彼らは私たちがするように恐れや自己防衛の囲いに逃げ込むということをしない。彼らは私たちの言うプライドというものを全くもっていないように見える。その反対に、彼らの自尊心が深いところに根ざしていることは疑う余地はない。
ラダックの人ほど落ち着いて感情的に健康な人たちを、今まで見たことはなかった。そうである理由はもちろん複雑で、彼らの生き方そのものや世界観というものに根づいている。だが私はつぎのように信じて疑わない。一番大きな要因は、自分自身がより大きな何かの一部であり、自分は他の人や周りの環境と分かちがたく結びついているという感覚である。
ラダックの人びとは、この地球上に彼らの居場所をしっかりともっている。星や太陽、月の動きは日々の活動を左右するなじみ深い生活のリズムになっており、彼らは自分が存在しているこの場所を巡るいきいきした関係に気づいている。
同じくらい大切なことは、ラダックの人の開かれた自我の感覚は、人と人との親密な結びつきと関係していることである。………彼らは喜びも悲しみも、多くの体験を共有してきた。人生の節目節目に行う儀式をともにつとめあげ、お互いに支え合ってきた。彼らの人間関係の深さに、私はこのとき気づいた。
「懐かしき未来 −ラダックから学ぶ Ancient Futures Keraning from Ladakh」(ヘレナ・ノバーグ=ホッジ著 「懐かしい未来」翻訳委員会訳 山と渓谷社 2003年)