平松洋子さん「小鳥来る日」の小躍りしたくなる筆致
前回に続き、平松洋子さんの「小鳥来る日」からの長い引用。
今回は「だから雑巾縫いはやめられない」というタイトルの記事。
ミシンに比べると手縫いはとてもいい。手、指、針、糸、布、全部に一体感がある。五者は雑巾を縫うという目的のもと、けなげな運命共同体となる。とはいえ、ミシンもろくに使えない者にできる芸当はひとつしかない。直線縫いだ。(威張る気分になっている所が我ながら情けない)
針は長くて太い縫い針、糸はしっかり撚りのかかった木綿の白糸。まずいきなり山場が来る。針の穴に糸の先端を通すとき、忍耐の末の達成感がたまらない。糸がすーっと通過した瞬間、針を握ったまま快哉を叫びたくなる。
直線縫いは勝手気ままで単純なのがいい。だから雑巾縫いがいちばん。温泉でもらうようなただの白いタオルを、両手を広げたくらいの大きさに折りたたむ。手始めに周囲の縁をぐるり縫い、次に左右を対象に分ける中心線、次に対角線。最初はただのタオルだったのに、針が刺しこまれるたびに生地が合わさっていき、直線の重なりが三角や四角の幾何学模様を浮かび上がらせる。ただのタオルだったのに、自分の手のなかで着々と雑巾に近づいてゆく。
わくわくすることは、まだある。休息もせずひたすら運動する針、これがすばらしい。表へ顔を出す、裏へ消える、また表へ現れる、消える、上下の世界を往復するようすは見ていてちっとも飽きない。しかも、そのあとを木綿糸が黙々とついて従う。終始無言。けなげ。文句も不平も言わず、逆らいもせず、兄に手をひかれて歩く妹のようにただ針を追う風景に感じ入ってしまう。
じつは、もっとも声を大にして言いたいのはこれだ。すっからかんの無心。ちくちく、ざくざく、ひたすら直線縫いをしていると、あら不思議、いつの間にやら没我の境地。頭の中の雑事をひと針、ひと目が吸い取ってくれて爽快極まりない。だんだん手が止まらなくなるのだが、縫い目が歪んでも曲がっても、知ったこっちゃない。針を刺しこむたび雑巾にふさわしい強度が備わってゆくのも痛快だ。白い生地と白い糸がないまぜになってしあがった一枚の雑巾は、晴れて山頂に登り切った気分。
またまた長文を打ち込んだ。ふ〜っ。でもこの人の文は打ち込んでいても苦にならない。楽しいのである。
この文章を何と表したらいいのか。読んでいて胸が躍るような、うれしくて舞いあがりたくなるような、誰かれ構わずみんなにこれ読んで読んでと薦めたくなるようなそういう文である。
とにかくこの文を読んだ時の気持ちを表現する言葉をどなたか教えてくれないか。