体験を咀嚼すること=教員の養成
2月17日の朝日新聞に、都立校の小口正明という先生「教員の資質向上」「体験を租借する時間与えよ」という内容の投稿を寄せていた。
教員をしていて『もっともやりがいのあることとはなにか』と「もっともストレスを感じることは何か」について(というアンケートの)結果はいずれも『生徒とのかかわり』であった。
そのためには『教員養成課程6年制』や『免許更新制』より、まず整えられなければならないものがある。それは教員の脳に蓄えられたかかわりの記憶を主体的に振り返り、それを把握するための時間の確保である。
かつて都立高校では『研修日』という勤務でありながら自主研修のできる日が、週に1日与えられていた。この時間こそ『明日に向かえる知恵としての経験』に転化させる装置であった。
教員は養成課程で造られるものではない。現場の体験を咀嚼し、生徒とのかかわりの物語を紡ぎなおして初めて現場を見直す目を持って自信が得られる。多くの心ある教員にその時間を与えてほしい。
この先生はそのための時間として、「研修日の復活」や「大学や大学院で学び直す」ことを提案している。全く同感である。
私は毎月2回主として教員たちが集まって「生活の分かち合い」を23年間続けてきた。この「わかちあい」の時間はまさにこの「明日に向かえる知恵としての経験に転化させる装置」であり「現場の体験を咀嚼し、生徒とのかかわりの物語を紡ぎなおす」ための時間であった。
ひとりの出した『生徒とのかかわりの物語』が別の人の物語を引き出し、その物語の解釈をまた別の人がしたりして、咀嚼し紡ぎなおした。分かち合いこそ教員の養成に最も有効な方法であることを確信する。
またそのような経験を持って大学で再び学び直すことも有効であろう。その経験に理論的な枠組みを与えて「あの経験はそういうことだったのか」「あのときはだからうまくいかなかったのだ」「あれはこうすればよかったのだ」と気づいていくことがどれだけその教員を養成することにつながるかはかりしれない。
今度は大学の方が問われる。そのような現場の教員のニーズに応えられる教育学をはたして提供できるのかということである。そういう教員養成のために大学の教育学はどうあらねばならないのか、そこを研究してほしいと切実に願うものである。