与えるとき人は「絆」の中に立つ
私は曽野綾子という作家は保守的すぎてどうも好きになれないのだが、正月の産経新聞の記事に書かれたことには、大いに賛同する。彼女もなかなかいいことを言うと思うようになったのは、私も年取って考え方が保守的になったということかもしれないが………。
その記事は、昨年大震災を機に「絆(きずな)」という言葉がもてはやされるようになった状況に苦言を呈している記事である。抜粋してみよう。
(むかしは)あらためて絆などと言わなくても、生きると言うことは濃厚な絆のただ中にいることだった。地震や津波を体験したから、その大切さに気づいたというのでは遅すぎる。
絆の第一歩は、年老いた親や親戚縁者や友人を、災害の時には引き受けるということだろう。そもそも絆の基本は、親と同居することだ。自分にとって頼りがいのある人との関係を持つことが絆というのだと考える人がいるとしたら、それは功利以外の何ものでもない。
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人間にとって故郷とその絆は、懐かしくもあり、うっとうしくもあり、悲しくもあり、胸うずくものでもある。日本人だけではない。どの民族も同じような矛盾を感じている。絆はなくなってみると悲しく、結ばれている間は辛いときがある。その双方の思いを受け入れるのが絆なのだが、最近の絆への思いは「ご都合主義」の匂いがしないでもない。
絆はそれによって得をするものではない。相手のすべての属性を受け入れるということである。
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絆は、むしろ苦しむ相手を励まし、労働によって相手を助け、親切に語り、当然金銭的な援助さえするものである。受けるだけの関係など絆ではない。むしろ本当の絆の姿は、与えることなのである。自分が与える側に廻ることを覚悟するとき、人は初めて絆の中に立つ。
ほんものの絆は、相手のために傷つき、血を流し、時には相手のために死ぬことだと私は習った。………………絆は自分の利益のために求めるものではない。むしろ自分の安全や利益などを捨てたときに、人間は絆の深さを示して輝くのである。
私たちはいつのまにか、ごく普通にコンピューターの画面の中だけで世界や人間を知ったつもりになっていたが、これからは生身の人びとのまっただ中に自分を置き、そこから学ぶという姿勢を知るべきなのだ。それは多くの場合、決してきれいごとでは済まない。摩擦、対立、相克、忌避、誤解、裏切り、などあらゆる魂の暗黒を見せつけられるが、その苦悩の結果として、深い連帯感という幸福の配当も受けるものである。
私にとっては、物心ついてから今まで、濃厚な対人関係こそすべての歓びと苦悩の種だった。私の廻りは常に絆だらけで、私はそれが。良くも悪くもある人生そのものだと考えて生きてきた。テレビの画面でヴァーチャル(現実に対して架空)な、従って薄っぺらな人生だけしか見てこなかった人たちの意識を、悲惨な地震と津波が濃密な現世に引き戻したとしたら、それは我々の人間性復活のための大きな贈り物と考えたい。
引用が長くなったが、こういう論調である。いかにも産経や読売好みの保守的な論調であるが、でも「絆は与える側に廻ることを覚悟するとき、人は初めて絆の中に立つ」ということは真理だと思う。
前に曽野綾子を引用したら、厳しいコメントを寄せたかれが再び厳しいコメントを書き込むかもしれないが…………………。