リバス神父を偲んで
前にリバス神父さんには「我こそリバスさんの一番弟子」を自認する人がたくさんいると述べたことがあります。
私もそのひとりであることはいうまでもありません。
5年ほど前に十二所で黙想中のリバスさんにお会いしたときに「リバス神父さんの一番の功績は土屋至を育ててくれたことだ」と述べたこともあります。私はそれほどリバス神父さんに育てられたことを恩義に思っております。
そしてこう思っている方々は私のほかにもたくさんおられることでしょう。
私も1968年ころリバス神父さんに「一本釣り」されてCLCに関わり出しました。
あるカトリックの若者の集会で「中南米に解放の神学というのがあるらしい。それを信奉するイエズス会士カミロ・トレス神父がゲリラに加わって殺されたのを追悼する集会がパリ5月のカルチェラタンのときにもたれたそうだ。私もその解放の神学についてもっと研究してみたい」と熱く語ったことがありました。そのときはまだ大学生だったかもしれません。
そうしたらその2日後だったかにリバス神父さんから電話がかかってきて「私も解放の神学の研究会をしたいけど、参加しないか」と強烈に誘われました。もちろん参加すると答え、胸ときめかしながらその「解放の神学研究会」に参加するために上智大学のすぐ近くにあったCLC事務局にいってみました。
そこに出席していた人は、故ニコラス神父さん(前イエズス会総長)、メルセス会SR.弘田、晃華学園校長だったSr.メリー・ラウラ、それから早稲田の大学院の東洋史の近藤さん(栄光の同期生)、東大政治学大学院の白石さん、相鉄観光に勤務していた道源さんというそうそうたるメンバーだでした。リバス神父さんも毎回必ず参加された。そこから「解放の神学への招き(ニコラス神父著、Sr.弘田訳、CLC(Christian Life Community出版局刊)という「解放の神学」に関する日本で一番最初の本が出版され。さらに「現代世界と暴力革命」(サンパウロ刊、1971年)を刊行しました。「解放の神学」を紹介した日本で最初の本だったと思います。でも「現代世界と暴力革命」というタイトルがついたのはビックリ。なんていうタイトルなんだとリバス神父さんも憤慨していましたっけ。
最初はCLCの「外郭団体」のつもりで参加していたのだが、いつのまにか中心部におしだされ、「CLC資料」の編集にかかわるようになり、CLC資料は15年間編集を続けたまま代表世話人もつとめました。
リバス神父さんは私にいろいろな役割を与えて仕事させ、私のいろいろな能力を引き出していきました。
あるとき、リバス神父さんから一流ホテルのあいだにながれている外国人向けの有線テレビに日本の学生の代表として出てほしいといわれたので引き受けたら、なんとそれは英語の放送だった。原稿を読んで話している間はよかったのですが、インタビューとなったら、ついに答えられずに立ち往生してしまい、一緒に出ていたもうひとりの女性の通訳にてかろうじてその場を切り抜けたことがありました。おわったときにはそこにいた外国人から拍手がわき起こりましたが、私ははずかしくてはずかしくて、私の英語力を知りながらこんな所に誘い出したリバス神父さんを恨みました。
Manila’76とRome’79にはCLC代表としてCLC世界大会に参加することにもなりました。英語にはほとんど自信がありませんでしたが、この参加を通じて少しは下手な英語でも話せるようになりました。あのときもっと勉強しておけばよかったとか外国に留学したらよかったとか後悔することもあります。
そして1973年だったか、リバス神父さんは手帳の中から、新婚のカップルを5組呼び集められました。ここで「夫婦のCLCをやろう!」と提起されたのです。結局残ったのは鈴木隆・典子夫妻、金子博・孝子夫妻、そして土屋至・清子の3組でした。「ろうそくの炎を囲む若き夫婦のCLC(略称「炎のCLC」)はそこから15年間毎月1回の霊界を積み重ねました。そのときに洗礼を受けていたのは金子博、土屋清子・至の3人だけでした。鈴木夫妻も金子夫人もまだ洗礼を受けていなかったのですが、その後誕生してきた子どもたちと一緒に洗礼を受けていくようになりました。
リバス神父さんは最初こそ例会に参加されていましたが、ここなら任せておけるということからかその後は参加がありませんでした。
CLCにはリバス神父さんの一本釣りでいろいろな若者がたくさん集まってきました。年に1回ひらかれた全国大会はとても豊かな出会いに満ちた集まりでした。熊本の中野さん、行橋の追立さん、京都の小山さん(現高松教区助祭)、山口さん、小松さん、長島正・節子夫妻、敷島さん、泉水さん、札幌の黒田さん、Sr.梅津(ウルスラ会)故斉木神父さん(京都教区)などなどユニークで元気なすがたが後から後から湧いてくるようにおもいだされます。
学生のCLCも元気でした。吉村さん、勝谷さん(現札幌教区司教)、河村さん、下川さん(イエズス会司祭)橋本さん、荒川さん、岡田さん、Sr.尾崎(援助会)、有村さん、みなリバス神父さんとCLCをとおして出会った人でした。
でもさみしいことにその中からずっと今でもかわらずにCLCに関わり続けているのは、結局研ちゃんと鈴木隆夫妻とと追立さんと私くらいなのですね。おっと、岡田芳明・友季子夫妻を忘れるところでした。
でもそのCLCは、恩知らずにも1979年、CLCの総指導司祭をリバス神父さんからネメシュ神父さんに交替してしまいました。CLCをここまで育ててくれた大恩人をEA(教会助言者)から外してしまったのです。いつまでもリバス神父さんのカリスマに頼っていてはいけない、CLCは親から自立しなければいけないという思いからの「共同識別」の結果でした。私ももちろん賛成しました。がこれは全国からのもう反発を受けましたが、後継のネメシュ神父さんの指導よろしきを受けてこの難局を乗り越えることができました。
考えてみるとリバス神父さんは、私たちとともに成長していかれたという印象をもっています。私たちが、若いときは「青年」、結婚したころは「夫婦とか家族」、そしてシルバー世代になると今度はシルバーの霊性を問題にしてくれました。そして最後は「心の病」まで付き合ってくれたのです。「ほんと、そこまで付き合ってくれなくてもいいよ」と思えるくらいでした。
清子さんが統合失調症で発作を起こして最初に入院したその帰り、私は悲しくて悲しくて涙を流しながら車を運転していったところは、駒場のザビエルセンターでした。幸いリバス神父さんはそこにおられて、すぐに出てこられ、話を聞き、肩を抱いて一緒に泣いてくれました。あのことは今でも思い出すと涙があふれてきます。
晩年の病の元にあったリバス神父さんを支えることは何もできなかったことをおゆるしください。
リバス神父さん、ほんとうにありがとうございました。
あなたを通してしめされた神の愛によって私はこうしてここまで生きてきました。
あなた抜きに私の人生は考えられません。
リバス神父さんを神さまの元にお返しします。どうぞ永遠の安らぎのうちにいこわれることを。
またいつの日か神のもとにてお会いできると信じています。
そのときを本当に楽しみにかつ励みにして私も最後まで生き続けます。
さようなら〜。
土屋さん
リバス神父さんへの文章を読ませていただき、心打たれました。大切な人が亡くなった時の悲しみが私にも伝わってきました。その人へ語りかけように文章を書くことで悲しみが癒されることがありますね。鈴木浩
リバース神父様が私に伝えた事
それは主の温かさでした。お会いするといつも、「ヒロシ元気だった」「孝子は・・」「洋子は・・」「ノアは・・」の質問があり、皆元気ですの返事をすると、満面の笑みをうかべ「良かった!」。 お会いして神父様の顔を見るだけで、私の心は穏やかになりました。きっと神父様とかかわった全ての人がこの温かさを味わったと思います。
いつか一緒にいるだけで人を温かく包める、神父様のような人物になりたいと思っていましたが、神父様にハグされて、元気づけられていた若造のまま年をとってしまいました。
いつかまた「ヒロシおまえも来たのか・・」とやさしく迎えていただけるよう、生きていきます。 神父様有難う、そして安らかに・・・・・・・
金子博様
徳田教会でお世話になった水野義夫です。
土屋至さん、金子さんや三吉亮さんなどには、CLCで、多くのことを学ばせていただきました。私はリバス神父さんと直接の接触はなく、イバニエス神父さんから教えを学びました。あの当時はいろいろな会合に参加をしてましたが、ネラン神父の時だと思いますが、真正会館のフロアーを黙想向きに改装するとの話があり、江古田の岩井さんが改装に尽力をされたことなども思い出しました。
私は現在、郷里で定年後の日々、外国人支援のボランティアで教会の周辺をうろついています。
大原神父、ルイ神父、大倉神父や太田さんなど徳田教会の仲間の皆さん、カトリックとの出会いは、消えることはなく、私の中にいつもあります。
土屋至さん、いつもやさしく、きれいで、わかりやすい言葉をおくり続けていただいて、ありがとうございます。