パスカルの賭け
パスカルの「パンセ」に』こういうくだりがある。有名な「パスカルの賭け」についてのくだりである。これは「はじめてのゲーム理論」(講談社ブルーバックズ 川越敏司著)に紹介されていた。この考え方が「ゲームの理論」の本に紹介されていたというところがおもしろい。
それではこの点を検討して「神はあるか、またはないか」と言うことにしよう。だがわれわれはどちら側に傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。そこには、われわれを隔てる無限の混沌がある。この無限の距離の果てが賭けが行われ、表がでるか、裏がでるかなのだ。君はどちらに描けるのだ………さあ、考えてみよ………。選ばなければならないのだから、どちらのほうが君にとって利益が少ないかかんがえてみよう………神があるという方を表にとって,損得を計ってみよう。次の2つの場合を見積もってみよう。もし君が勝てば君は全部もうけられる。もし君が負けてもなにも損しない。それだから、ためらわずに神があると描けたまえ………ここでは無限に幸福な無限の生命がもうけられるのである。勝つ運がひとつであるのに対して負ける運は有限の数であり、君の賭けるものも有限なものである。これでは確率計算など全部いらなくなる………したがって無に等しいものを失うのと同じような可能性でもって起こりうる無限の利益のために、あえて生命を賭けないで、出し惜しみをするなど、理性を捨てないかぎり、とてもできないことである。
このパスカルの考え方について「はじめてのゲーム理論」の著者川越敏司氏はこんな注釈をよせていました。
これは「パスカルの賭け」と呼ばれている、神への信仰を合理的に正当化する有名な議論のひとつである。
神が存在するか否か、どちらかに賭けるとしたら、存在する方に賭けた方が、存在しないという方に賭けるよりも期待値が大きいから、神が存在すると信じるべきだという論法です。
これは非常にゲーム理論らしい考え方です。パスカルは何百年も前に、ゲーム理論の考え方を先取りしていたのかもしれません。
この論法は、たとえば「死後の世界」が存在するかどうかについても当てはめられる。つまり「死後の世界」が存在するかどうか、人間には分からない。問題は「死後の世界」が存在する方に賭けるのか、存在しない方に賭けるのか「賭け」なのである。どちらに描けた方が利得があるのか。
それは明白である。「存在する」ほうに賭けた方が希望を持って死ぬことができるからである。死んだらもうそれで終わりと考えるよりも、死んだら天国に行ける、死んだら先に死んだ自分の肉親や愛する人と再会できると考えた方がずっと希望と安心を持って死ぬことができるからである。
この論法は他の問題にも当てはめることができるだろう。
信仰というのはそういう問題なのかもしれない。
というと、信仰は損得の問題ではないと反論する人がいるということも想像するに難くないが………。