シンパシーとエンパシー
毎日新聞6月1日の「シリーズ対談…大震災のあとで」で瀬名秀明氏と苅部直氏が対談していた。
その対談の中で瀬名氏がシンパシーとエンパシーについて述べていた。両方とも共感とか思いやりを示す表現であるが、この違いはなかなか意味があるように思った。
瀬名さん 私は人への思いやりを、シンパシーとエンパシーに区別しています。シンパシーは相手の気持ちに同調した状態で、エンパシーは能動的に相手の心に入り込んで想像する行為。今回、広範囲でシンパシーが表れました。
多額の義援金が集まる一方、同情しすぎてストレスになったり、情報が錯綜する原発問題に過剰に不安になったり。
苅部さん 共感にまとわりついてくる危険性をどう回避するか。政治哲学者のハンナ・アレントがそれを論じていますね。
他者との一体感を過剰に思い込む心情が、フランスとロシアの革命では、人びとを同質化する暴力をもたらした。そうではなく、他者の苦難がそれぞれ個別であることを理解しながら、手を差し伸べるような連帯の形が望ましいと。
この説明ではまだ分からなかったので、ちょっと調べてみた。
シンパシーは「感情移入」と訳し、エンパシーは「自己移入」と訳すらしい。両方ともに「共感」という訳語がある。これでもまだよくわからない。
「対話流—未来を生みだすコミュニケーション」(作者: 清宮普美代,北川達夫)という本に書かれていたことによると
シンパシーとエンパシーの違いは微妙なものですが、最大の違いは発想の前提にあって、相手のことがわかるという前提で考えるのがシンパシー、相手のことがわからないという前提で考えるのがエンパシーです。
シンパシーは「感情移入」、エンパシーは「自己移入」と訳します。エンパシーを「共感」と訳すことがありますが、これだとシンパシーと混同しやすいですね。
国語の問題でいうと、「その時、主人公はどんな気持ちでしたか?」と問えばシンパシー型、「あなたが主人公と同じ立場に置かれたら、どんな気持ちになると思いますか?」と問えばエンパシー型です。シンパシー型だと「主人公の気持ちになって考えましょう」ということ。一方、エンパシー型では「主人公の気持ちは本人にしかわからない」ということで、自分自身に置き換えて考えます。
少し分かったような気がするのですが、まだまだぴんときていません。こんな説明もありました。
シンパシー人間とは、溺れている人を見て、ああ可哀想!!助けなくてはと直ぐに自分も水に飛び込む人。この人はその溺れている人を助けるどころか、自分までも溺れてしまいます。あなたは現在シンパシー人間になっている? だから、「もう辛くて毎日がうつ状態」であったり、「もう限界」という言葉が出るのでは?
その反面、エンパシー人間は、溺れる人を見ても自分は飛び込まずに浮き輪を投げて「それに飛びつけー。そしたら僕が引っ張って助けてやる」という人。あなたが浮き輪をなげてもそれを拒否してその人はついには溺れてしまったとしましょう。それは、あくまでその人自身の選択であってあなたの責任ではありません。御本人の選択でそれなりの結果が生じた訳です。
もう一つ見落とせない大事なポイントがあります。人を可哀想に思うという事は、その人を哀れむ、即ち、ある意味では彼女を見下げている態度をとっているといえます。可哀想だから助けてあげるという態度は「僕がいなければ君は生きていけない」と相手を見くびっているのと同じこと。こんな態度はその相手に対して大変失礼。というのは、この世に生まれてきた以上、私達は誰でも元々この世界でちゃんと一人でも生きてける位のツールを充分に備えて生まれてきているからです。 この際、彼女の為、そして自分の為と思って彼女とはっきりと見切りをつけることをお勧めします。頑張って下さい!!
これでわかりました。おぼれている人がいたら、自分も飛び込んでしまう人がシンパシーで、浮き輪を投げてそれにつかまれという人エンパシーなのですか。
すると、ルカ福音書の「よきサマリア人」の「あわれにおもう(スプランクニゾウマイ)」は「シンパシー」なのかな。
カウンセリングなどはきっとエンパシーという関わり方をクライアントとの間に持とうとすることなのでしょうか。