ウィーンの小学校の朝の祈り
愛する神さま、」私たちが愛しているすべてのものに対して感謝します。私たちの愛する両親、美しい花々、そして動物たち………世界に対して感謝します。………そして何よりも“わたしがわたしである”ことに対して感謝します。
この祈りは、著者の小野寺功氏が、神奈川私学の教育視察のグループに加わって、ウィーンの小学校を訪問したときにたまたまこの「朝の祈り」の場面に出会ったものだという。「この祈りは断片的ながら、ヨーロッパ的人間形成の核心をみごとに伝えている」とも述べている。
「教会と学校での宗教教育再考●<新しい教え>を求めて」 森一弘・田畑邦治・M.マタタ編
この祈りを毎朝子どもたちはどういう気持ちで唱えているのだろうか? とくに「“わたしがわたしである”ことに対して感謝」するという祈りの言葉に子どもたちはどういう感じと理解を持って祈っているのだろうか。
この祈りを生徒達に私も授業で教えたことがある。そのときに「私が私である」ことに感謝するというのはどういうことなのかを問いかけた。でもなかなか答えが出てこなかった。そこで私はヒントを出した「私が私でない」時というのはどういうときか?ときくと「私らしさが失われている」とか「人やまわりに流されてしまっている」「本当に望んでいる姿と違っている」などの答えが出てきた。
想像するに祈るたびにこれはどういうことだろうか? いったいどういう意味があるのだろうかと考えるに違いない。そしてあるとき「これはこういうことなのかな」とか「こういうことだったのか」ということに気付くことがあるかもしれない。
その<きづき>が大事なのだと思う。そういう気づきが生活の中に豊かにあるような祈りこそよい「朝の祈り」ではないかと思う。