「自殺」についての日韓司教交流会の見解
日本と韓国のカトリック司教団の交流会があったという記事が12月5日付のカトリック新聞に紹介されていた。この記事はとても興味深かった。
「『自死』テーマに選ぶ、両国に共通の社会問題という見出しの記事であった。この「自死、自殺」というテーマで日本」と韓国の司教団との見解の相違が浮き彫りにされたというところがとても興味深い。
その記事の中に次のようなことが書かれていた。
日本は対応として自殺した人にあわれみをもってかかわり、遺族を励ます、ということをあげています。一方韓国の司教たちは『数年前まで私たちものそのように考えていたが、自殺者に対して寛容にするともっと自殺者が増える。罪を強調して自殺を予防する」と話していた。『自死』ということばは「いのちは自分のものという印象を与え、生死を自分で決められると思わせるため問題ではないか」と話していたのが印象的。しかし、両国とも自殺が多い状況で。教会がどう応えていくべきかを考えるいいきっかけになったと思います。
かつて、カトリック教会では自殺は罪であると考えていて、自殺した人の葬儀はほとんどの教会では行いませんでした。
でも、それが遺族の方の苦しみを助長してきたし、教会が裁く側にたってしまったと日本の司教団が数年前に書いた「いのちへのまなざし」では反省しています。
これは日本のカトリック教会の大きな転換点であったと思います。
中絶や離婚、あるいは同性愛についても、教会は「罪」であるとして似たような対応が取られてきたことにも関係することです。
ところが記事によると韓国の司教団は「それではかえって自殺を増やしてしまう。自殺は罪であるということを強調すべきだ」といっているのですね。はたしてその方が自殺を防止できるのかどうか。私にはどうしてもそうは思えないのですが………。
もう一つ考えたことは、あの「いのちのまなざし」に示された考え方は、バチカンからの指示でもヨーロッパの教会の趨勢でもなく、日本の司教団の独自の決断の結果なんだということにあらためて気がつきました。
日本の司教団もたまにはいいことをいうんだと思うようになりました。