「神われらと共に」という詩と「老いの才覚」

曽野綾子著「老いの才覚」という本を友人に勧められて読んだ。
いかにも曽野綾子さんだなという感じの毅然としたあるいは凛としたその論調に感銘を受けた。

この本の帯には次のように書かれている。

年の取り方を知らない老人が急増してきた。
超高齢化の時代を迎える今、わがままな年寄りこそ大問題
自立した老人になり人生をおもしろく生きるための7つの才覚の持ち方。

そしてその「7つの老いの才覚」とは

1.「自立」と「自律」の力
2.死ぬまで働く力
3.夫婦・子どもとつきあう力
4.お金に困らない力
5.孤独とつきあい、人生を面白がる力
6.老い、病気、死と馴れ親しむ力
7.神さまの視点をもつ力

である。この人の本は見出しを読めば言いたいことがよく分かるような気になるので、裏の帯に書かれている見出しをあげてみる。

他人に依存しないで自分の才覚で生きるために
●高齢者に与えられた権利は放棄したほうがいい
●老化度を測る目安は「くれない指数」
●老人が使う言葉が極度に貧困になった
●人に何かをやってもらうときには対価を払う
●ひと昔前まで、人は死ぬまで働くのが当たり前だった
●料理、洗濯、掃除、……日常生活の営みを人任せにしない
●老年の仕事は孤独に耐えること

7の「神さまの視点をもつ力」というのがクリスチャン曽野綾子らしいところである。
そこに書かれていることの見出しを列挙してみる。

あの世があるかないか、わからないが、分からないものはある方に賭ける。
神さまがいると思ったことが二度ある。
引き算の不幸ではなく、足し算の幸福を
信仰を持つと価値判断が一方的にならない
神の視点があってこそ、はじめて人間世界の全体像を理解できる。
神われらと共に

最後の「神われらと共に」というのはブラジルの詩人アデマール・デ・バロスの詩である。

    神われらと共に(浜辺の足跡)
                 アデマール・デ・バロス

夢を見た、クリスマスの夜。
浜辺を歩いていた、主と並んで。
砂の上に二人の足が、二人の足跡を残していった。
私のそれと、主のそれと。
ふと思った、夢のなかでのことだ。
この一足一足は、私の生涯の一日一日を示していると。
立ち止まって、後ろを振り返った。
足跡はずっと遠く見えなくなるところまで続いている。
ところが一つのことに気づいた。
ところどころ、二人の足跡でなく、
一人の足跡しかないのに。
私の生涯が走馬灯のように思い出された。
なんという驚き、一人の足跡しかないところは、
生涯でいちばん暗かった日とぴったり合う。
苦悶の日、
悪を望んだ日、
利己主義の日、
不機嫌の日、
試練の日、
やりきれない日、
自分にやりきれなくなった日、
そこで主のほうに向き直って、
あえて文句を言った。
『あなたは、日々私たちとともにいると約束された
ではありませんか。
なぜ約束を守ってくださらなかったのか。
どうして、人生の危機にあった私を
一人で放っておかれたのか、
まさにあなたの存在が必要だったときに。』
ところが主は私に答えて言われた。
『友よ、砂の上に一人の足跡しか見えない日、
それは私がきみをおぶって歩いた日なのだよ。』

この詩を読んで、これは「あしあと」(マーガレット・F・パワーズ作)という詩の「パクリ」であることに気づく人もいるでしょう。曽野綾子さんもそれを知らないはずがないのですが、あえてこの詩を持ち出したところに意味があるのかもしれません。確かに原作よりもこちらの詩の方がいいです。

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