「海鳴りの底から」にみる島原の乱の「パライソとインヘルノ」
この小説は堀田善衛が60年安保のころに「朝日ジャーナル」に書き下ろしたものである。
この本の表紙に書かれているこの小説の紹介である。
生きるか死ぬか、死ぬのが吉利支丹じゃろうか?幕府のキリシタン弾圧と藩の圧政に3万7千人の老若男女は島原の小さな城に立て篭もった。時に寛永14年11月。それに対して幕府連合軍は総勢12万5千。城の内と外で繰り広げられるハライソ=天国とインヘルノ=地獄。
島原の乱を舞台とする小説には「出星前夜」(飯嶋和一著 小学館刊)がある。この小説にも描かれていたが、「海鳴りの底から」にも同じようなテーマが浮かび上がる。つまり「地獄の中に天国がたちあがる」である。このテーマは、「災害ユートピア」で紹介した。
この小説の中で私が興味を持ったのはいくつかあるのですが、その中の一つは農民たちがなぜこの反乱をおこしたのかということを語るところです。
二ノ丸指揮者である山善右衛門は、まことにじっとしていられないふうで、しばしば軍奉行のかねての命に反して二の丸の持ち場持ち場へ出張っていき
「ほい、敵は大日本じゃ。おいたちはここにかとりかのれぷぶりかをおしたてるじゃぞぉ」
かとりかのれぷぶりかとはなんのことじゃ、ととわれれば、
「かとりかと申すは、世間は広いという意味で、れぷぶりかと申すは、国ということじゃ。国と言うてもな、天地同根、万物一体、一切衆生貴賎を撰ばずちゅう国柄のことじゃ。」ときれいさっぱり、応えていた。申し分があるなら言えということであるから申し上げるが、今回、われわれが下々として一揆に立ち上がったのは、なにも国郡などを望んでのことではない。われらの宗門について自由が許されるならば、そのほかに存念とてはないのである。
次に興味を持ったのは、原城の陣中旗のことである。これを描いたのはこの小説の主人公の一人である絵師山田右衛門作である。かれはリーダーでありながら、敵がたに内通し、原城の戦いで唯一生き残ったリーダーであった。
この小説の初めの方に山田右衛門作がこの陣中旗を描くシーンがある。
一揆衆の中心になるものは何か、十字架の立つ聖餅と聖体秘蹟盃、つまりはぜずす・きりしとそのものを授かるという聖体の秘蹟、この二つ以外はありえない。それが羅馬公教会の中信思想である。聖杯には淡黄色をほどこし、銅板画の手法を用いて滑筆による陰影をつけた。この聖盃に侍して拝する二天使は、蘆筆を用いて飛翔の力感がでるように素描のあとをあらわにのこし、暗部は綾描によった。彩具は膠画用のものを使った。
描き終わって、上部に LOUVAD SELAO SANTISSIM SACRAMENT(いととうとき聖体の秘蹟は賛美せられさせたまえ」とのポルトガル語の賛をいれた。
この時代、司祭はいないのでミサは上げられない。だから聖体の秘跡には預かれないのである。なぜこのような絵になったのか、とても唐突な感じがするのだが、このしょうせつではそこはときあかされない。
もうひとつある。それはこの小説の中にしばしば「こんてむつすむん地」が読まれる場面が出てくる。
「こんてむつすむん地というのは、むずかしく言えば、すべて世俗の虚栄を蔑視する、ということじゃ。むんぢというのは、この世の中ということ、世界ということじゃから、地の字をしまいにあてた。その本は知ってのようにぜずす・きりしとにならうためのもの。初めから読んでみてくれ。」
和作は、火にこの木活字による、ほとんどが平仮名ばかりの活字本をあらためてかざした。
「御あるじのたまはく、われをしたふものはやみ(闇)をゆかず、ただ命のひかりをもつべしと……。」
右衛門作は、和作が読み下していく文章を耳にききながら、旨に誇らしい気持ちが湧いてくるのをおさえかねた。七面倒な漢文などではなくて、平仮名で見事な国語が連ねられている。慶長8年に長崎で印行されたものであった。その平俗な日本語にこめられている情と熱の深さに高さにはいつ耳にしても右衛門作はうたれた。仏教経典のあのわけのわからなさにくらべれば、よくもこんなにやさしくて耳に入りやすく、しかも美しい日本語に外国の経文がなったものだ、と感心した。
それは第1章、De Imitatione Christi et Comtemptu Omnium Vanitatum Mundi という章名を「世界の実もなきことをいとひ、ぜずすきりしとを学び奉ること」と、素直に訳していた。この素直で情け深い国語の書き手として、細川ガラシャおたまの方、あるいはガラシャ夫人周辺の人々を彼は空想裡に描いている。西海の果てから伝わって来た経文が、美しい日本語を生む機縁になったということが、右衛門作にはえもいわず面白く感じられた。それはおのれ自身の画業にも通じてくる何ものかをもっているはずである。
この「こんてむつすむん地」はトマス・ア・ケンピス著の「イミタチオ・クリステ(キリストにならいて)」という書で私も昔読んだ本である。
そんなに美しい日本語なのか、あらためて読んでみなければならないなと思われた。