「昨日のように遠い日 少女少年小説編」の独特のユーモアと切実さ
友人が facebook に次のように書いていた。
息子が学校から帰宅し「今日、国語の授業で読んだ短編は素晴らしかった。感動した」という。教科書に載っていたのだそうだ。そこまで息子が評価する小説を私も読んでみたいと思いネットで探す。アルトゥーロ・ヴィヴァンテ作「灯台」。「昨日のように遠い日」という作品集に入っている。
これは読まねばと思って、すぐに図書館に予約を入れて、その本を手に入れ、さっそく読んでみた。その中から一番短い『小説』を紹介してみよう。
ある男の子に尋ねました。 ダニエル・ハルムス 増本浩子訳
ある男の子に尋ねました。「ねえ、ヴォーヴァ、どうして肝油が飲めるの? ものすごくまずいのに」
「肝油を一口飲むと、ママが10コペイカくれるんだよ」とヴォーヴァが言いました。
「10コペイカ玉をもらったら、どうするの?」とヴォーヴァに尋ねました。
「貯金箱に入れるよ」とヴォーヴァは答えました。
「それから?」と尋ねました。
「貯金が2ルーブルになったらね」とヴォーヴァは言いました。「ママがお金を貯金箱から取り出して、ぼくに肝油をひとびん買ってくれるんだ」
この話を読んで何を感じ、何を考えられただろうか? 「ふ〜ん。不思議な話だ。この男の子はこの答えにナットクしたのだろうか? ヴォーヴァはそれを楽しみにして肝油を飲み続けているんだろうか?」などなど疑問が次から次へとわき起こってきた。
この「小説選」にはこんな話がイッパイにつまっている。なかには「なんだこりゃ」という話もあるが、それでもなぜか心に残る話なのである。
私はこのダニエル・ハルムスという作家に興味を持った。「おとぎ話」という話が一番気に入った話である。
アルトゥーロ・ヴィヴァンアテの「灯台」「ホルボーン亭」もなかなかいい。前者は国語の教科書に載っていたという話だが、これを教科書に載せる編集者の慧眼もさりながら、それに感動する少年もみごとであり、それを聴いてすぐに読んでみようとする母親にも感心する。
さらには、これらの「少女少年小説」を選んで「少女少年小説集」とした柴田元幸氏に敬意を表したい。かれは「あとがき」で次のように書いている。
少年小説にあっては(そして少女小説にあってもおおむね同様に)「われわれは常井、少年に見えている世界にと、いずれ彼に見えるであろう世界からなる、二重写しの世界を見ている」のであり、その二つの世界の間の緊張から独特のユーモアと切実さが生じる」
さらにさらに、FBでも紹介されていたが、この本の江國 香織の「書評」もなかなかすばらしい。いかにも手にとって読みたくなるような秀逸の書評である。その中にこう書かれていた。
ほとんどの物語が少年か少女を主人公としているのだけれど、少年や少女である時間の特別さというのは、それが大人たちの日々とおなじ時空間に存在するために、ある意味で閉じられ、そこにおもしろいひずみが生れる。この本のなかには、そのひずみが、たくさん、さまざまな形で存在している。いま確かにここにある、けれどいつか失(な)くなってしまうひずみ。どの作家も、それを全く感傷的なふうには扱っていない。小説にとって、ひずみは勿論おもしろいものなのだ。個々の人間にとっては、記憶が感傷をひきおこすかもしれないとしても。
この文章を読んではじめて「少女少年小説」とわざわざ文字の色を分けて書くこだわりの理由が少し分かるような気がした。