司馬遼太郎「街道を行く−南蛮の道」にみるイグナチオとザビエルと「霊操」

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの「南蛮の道 1」はバスク地方にフランシスコ・ザビエルの足跡を尋ねる旅を描いた。

1982年、筆者はフランス,スペイン、ポルトガルの旅に出る。「街道」シリーズ初のヨーロッパ行きで、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの人生をたどっていく。学んだパリ大学、イエズス会の血盟を誓ったモンマルトルの丘を訪ね、バスクの地へ。生誕地のザビエル城では自分を「オバケ」と呼ぶ修道士が現れる。濃厚なバスク人の世界へ包まれていく。

この紀行文のハイライトのひとつは、イグナチオ・ロヨラがフランシスコ・ザビエルを口説いて、イエズス会を結成する場面にあるだろう。嫌がるザビエルをイグナチオとその仲間たちがどのように説得したのか、いろいろと興味深く描かれている。

ロヨラー老書生で跛者、学問と言えるほどのものはない。しかし、死神のような信念を持っている。さらには人に取り憑くような目を持ち、相手を見入り続けるとき、ザビエルのような陽気で平凡な秀才は、ロヨラの深い目の中に落ち込んでしまうか、ことさらに痴呆じみた明るさを偽装して逃げる以外にない。
ザビエルは逃げ続けていた。
この間、ロヨラは同室のザビエルをつかまえては、とき続けていた。
「私は地上の英雄になりぞこねた。今はイエスのためにマリアの騎士になろうとしている」
といったり、
「君、思いをひそめたまえ。君は学問をして浮世の栄達をもくろんでいるようだ。君ならきっと富も名誉も得るだろう。しかし、全世界を得たところで、なにになる。生命が尽きればそれだけのことではないか。聖書にその意味の言葉があることをよく考えてもらいたい。」
と言ったりした。しかし、4年間というもの、ザビエルの態度に変化がなかった。むしろロヨラのうとましさが増したかに思えるが、当のロヨラは平気だった。ザビエルの感情などを無視しきらなければ、4年間も
「おれと一緒にやろう」
というひとつ主題を時続けられなかったにちがいない。くりかえしいうが、同じ寄宿舎の部屋での4年間である。説くほうも説かれるほうもけた外れに気が長いというあたり、中世人の特徴というべきか。もっとも、ルネサンスという機関車の蒸気があがりきって、人文主義の盛行とルター主義の勃興を迎えているこの時代は、すでに’中世ではない。
しかし、ピレネー山脈に故郷をもつ二人のヨーロッパ少数民族ーバスク人ーのこころにあっては、中世を特徴づける「激情と粘着」という精神が生き血のあざやかさを持って行き続けていたという他ない。

ザビエルを決定的な回心へと導いたきっかけとなったのは、イグナチオがあみだした「霊操(この書では「心霊修行(スピリチュアル・エクササイズ)」と呼んでいる)」である。

ロヨラの瞑想について、素人が解しうる範囲でー当然大きなまちがいがあると思うがー精一杯理解したつもりになってみると、ついの極みは自分が造物者から作られた、小さく、はかない、しかも罪のかたまりの存在であることを実感することであろう。さらに自分の存在が無に等しくなってゆくとき、逆に造物者が宇宙そのものの巨大さになって自分をおおってしまう。人間にそういう実感を起こさせる実在こそ神とされるのであろう.右の実感を戦慄的に感ずるには、一定の秘儀が必要で、ロヨラは体系としてその秘密瞑想儀礼をあみだしたのである.

ロヨラはザビエルに「霊操」を直接指導した.

修行者は、俗世間の喧騒から離れて静かに送る30日の間永遠の真理が自分に働くようにすべきである。

この私がきめた心霊修行の期は、4つの週に別れている。週ごとになすべきことがある。しかしどの週にあっても、一日に5回、1回にたっぷり1時間は瞑想に当てねばならぬ。
私、つまり君の心霊修行の指導者であるイニゴのことだ。私はときに修行中の指導のために訪ねる。そのとき、わたしに向かって君は心を開かねばならぬ。
修行中、かならず悪魔がやってくる。人類の敵たる悪魔は女と同じように怯えている相手に対しては図に乗ってたけりくるってみせる。しかし、相手が頑強だとみると弱腰になってしまう。
心霊修行の基礎として、司馬遼太郎氏は以下のように記述する。
「人間は、主である神をたたえ、崇め、神に仕えるために創造されたものである。」
「われわれ同士に関する限り、病よりも健康を好んではならぬ。貧乏よりも富を好んではならぬ。恥辱よりも名誉を好んではならぬ。短命よりも長寿を好んではならぬ。」
これは「霊操の原理と基礎」とよばれるものである。

イグナチオ・ロヨラは、修行者が決意すべきことをザビエルに以下のように指導した。

「修行者はいかに貧しくいかに侮辱されようとも、なしうる限り、磔にされたキリストのあとに従うために、俗世と俗世のあらゆる所有物をすてねばならぬ。
魂が勇気づけられ、所有するすべてを惜しみなく神のもとに返すようになる。修行者は常に神の聖なる現前のなかにのみ生き、ただ神のためにのみ働き、いつまでも神に対する神聖な愛に燃えていたいと願うようになる。神は限りなく愛すべき存在であり、あらゆる美と善と永遠なるものの源泉である。」

このロヨラの指導する霊操により、ザビエルに回心という強烈な変化がおこった。

「30日の心霊修行のあと、ふたたび仲間たちのところにもどって来たときには、フランシスコは別人のようになっていた。以前と変わらず陽気な愛すべき人間ではあったけれども、その表情は聖なる焔に輝いていた。」
「その心は、主にしてこの世の王である。磔殺されたキリストへの強烈な憧れと聖なる愛に満ちていた。」
「より一層の奉仕のためならば、神が指示するいかなるところへでも、生死にかかわらず、神のあとに従ってゆこうと思っていた。」
この燃えるものが、このあとザビエルをしてインドに赴かせ、さらにひとりもヨーロッパ人がいったことのない相手もヨーロッパ人をみたこともない日本という異郷に赴かせることになる。
「これ以後、イニゴはフランシスコにとって、深く崇拝すべき最愛の「魂の父」にして、かつ「キリストの愛ということでの唯一の父」になった。神はイニゴを通じてフランシスコの魂に語りかけたのである。」

クリスチャンでもなく、「霊操(心霊修行)」を体験したこともない司馬遼太郎が、もののみごとに、イグナチオとザビエルと「霊操」を描いていると思う。

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