「どちりな・きりしたん」の信望愛

「千々石ミゲル(青山敦夫著)」のなかに、ミゲルは信仰を棄てたとされているあとにも、妻のたまとともに、「どちりな・きりしたん」を読んでいたと書かれている。「どちりな・きりしたん」はキリスト教の教義について書かれたキリシタン版の書である。

おたまが家にいるときは、二人でかわるがわる「どちりな・きりしたん」を声に出して読むことにした。「どちりな・きりしたん」のなかに出てくるキリシタンの掟ともいうべき3つの教えが二人の行く道を示してくれているように思えたからである。
一には、信じ奉るべきこと、二には、頼もしく存じ奉るべきこと、三には、身持ちを以てつとむべきこと、これが3つの教えである。信じ奉るは「信仰」そのもので、ないがしろにすれば「後世の道に迷うこと多かるべし」とある。2の頼もしく存じ奉るとは希望を持つことで「難儀に逢ふべきとき、頼む所なしと思ひてに、心を失ふこともあるべし」とある。3番目の「身持ちをもって」の身持ちは「愛」で、なにごとにも愛は欠かせないとある。

希望を「頼もしく存じ奉ること」愛は「身持ちを以てつとむべきこと」ところが興味深い。愛を「ごたいせつと訳したことはよく知られているが、ここでは「身持ち」となっている。「みもち」を「新明解」でひいてみると「人間としての生活態度。品行。」と「妊娠した状態にあること」とある。ひょっとすると後者の意味でつかわれたのだろうか?

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