平松洋子さんの「小鳥来る日」というエッセイの連載が楽しみです。
毎日新聞日曜くらぶに、4月から新しく始まっ連載エッセイ「小鳥が来る日」が掲載されている。
作者は平松洋子さん、私にとっては初めてきく名前なので、調べてみたら「エッセイスト、フード・ジャーナリスト」とあった。
このエッセイがとてもいい。読んでいて痛快というか、うれしくなるのである。
エッセイを読んでいて、こういう感じになるのは石垣りん著「焔に手をかざして」以来である。
例えばこんなふうである。
喫茶店でコーヒーを飲んでいたら、若いカップルが入ってきた。
この二人はコーヒーを注文するなり、男は店に備え付けの新聞、御名は雑誌を読みだした。今はめっきり少なくなったけれど、昔はこういう若いカップルがたくさんいた。学生だというのに妙に所帯臭くて、なにがどうしてそうなったのか年季が入った連れあい感を漂わせている。街場の中華料理屋などで、それぞれ漫画本を読みながらもやし炒め定食と餃子を黙々と食べていたりするのだ。上村一夫の「同棲時代」も一緒に思い出された。なつかしいなあ。
埒もないことを考えながら、再び小説に没入していると、男の声が静寂を破った。
「今日のめし、なんにする」
女が顔をあげ、のんびりとした口調で、しかし瞬時に応じた。
「キャベツと豚肉の炒め物」
すごい。夕飯のメニューをもう決めてあるのか。ほうと感心する。すると、男が引き取った。
「じゃあ、キャベツと豚を味噌汁代わりにして、納豆を食おう」
意味はまるで分らなかったが、満足げな気分だけはよくわかる。だいいち、おいしそうじゃないか。その夜、わたしがキャベツと豚肉の炒めものをつくったのは言うまでもない。
さて、それから2カ月ほどたった日の午後である。同じ喫茶店でいつものように本を読んでいると、ドアベルがちりんちりん、何気なく顔をあげると、おや、この間の二人連れである。今日もTシャツとジーンズ、サンダルで、コーヒーを注文すると、お決まりの流れで傍らのラックから新聞と雑誌を取り出す。
私は期待しました。きっと言うぞ、言うぞ。視線は手元の本におとしてみたものの、耳がそわそわして読書どころではない。待つこと20分。新聞2紙とスポーツ新聞1紙を読み終えた男は、例の一言をついに放った。
「今日のめし、なんにすんの?」
私は小躍りしたい衝動を抑え、固唾をのんで次の展開を待ち受けた。女はまたしてものんびりとしかし、間髪を入れず応じた。
「ミートソース」
すごい。彼女の頭の中にはメニュー表がきっちり組み込まれているのだ。なんでもない料理の名前ひとつなのに、やたら幸福感が押し寄せてくるのも憎い。若くてもやるもんだなあ。さすがの展開はまだあった。
「サラダもちゃんとつけてくれよ」
「了解」
クールに言い放ちながらも全部を受け入れる様は、慈母のようでもある。しかも席を立つとき、当然のように自分の財布から自分のコーヒー代500円を取り出して男に手渡すのだった。男が情けないのではない。女の方が男前なのである。
(毎日新聞2011年7月10日「いまどきの『同棲時代』」)
ちょっと引用が長くなってしまった。途中できることができなくなって、これも読んでほしいと思いつつ、後半を全部打ちこんでしまった。ふ〜。
これを読んで何を感じられたであろうか?
私はこの人の書いた本を直ぐに図書館に予約して読まなければと思って、予約した。