吉川英治「高山右近」の痛快さとはがゆさ

吉川英治が高山右近を主人公にした小説を書いているとは知らなかった。これはおもしろそうと読み出したら、期待通りおもしろかった。吉川英治ならこそのあとを引くおもしろさである。

「高山右近」は著者にとって戦後の沈黙を破る最初の新聞小説であった。大衆文壇の大御所が数百万の読者のまえにどういう題材を出すのか、緊張と期待が大きかった。
当時(昭和23年)の日本の世相を想うとき、高山右近は歴史の睡りから呼び醒ますべき人物であった。
切支丹大名として異端視された右近を見直すときは来ていた。開巻第一、著者は16歳の右近を登場さす。しかも戦国の世では破格の“自由都市“堺において、雄渾な序曲である。

永禄11年、畿内では三好一党の時代はおわり、代わった松永久秀も安定政権ではなかった。前年美濃の斎藤龍興を仆した織田信長が京師にまで勢威を張ってきた。わけて木下籐吉郎は、その尖兵である。
掌をさすような時代描写は圧巻であるが、「高山右近」の執筆動機のひとつは、戦後の乱脈な男女関係にあったようである。右近の若く未熟な心もまた、清純な町娘お由利と爛熟した歌い妓のおもんの間で激しく動揺し、暴走する。

以上は、講談社吉川英治文庫所収の文庫本の表紙に書かれていた内容紹介である。

この小説は、右近の16歳から19歳までの青春の恋を描いている。右近はもちろんすでに洗礼を受けていてキリシタンではあったのだが、それよりもこの時代を放浪徘徊していた一人の青年像として描かれている。
巻末の吉田満というひとの「解説」によると、この小説は未完であったという。井伏鱒二に語ったところでは「右近の続きは書かないかもしれぬ。キリシタンものを書くのは厄介だからね。」という。

「高山右近」の連載のとき、日本在住のある外国人が、右近を聖者として認めるように本国に申請していたということで、聖者ともあろうものが恋愛などしたと書かれては困るといって抗議してきた。「よくわからない日本語で、半日の上も座り込まれて談義を聞かされるのはたまらないよ。まったく厄介だ」これが執筆中断の作者の弁であった。

この外国人が誰であるか何となく想像できるが、確かに右近の列福運動を勧めている教会にとっては、この小説は「まずい」のかもしれない。
この小説の右近は、優れた武将でもなく、信仰の人でもなく、ただ時代にもまれながら苦悩する青年なのである。時にふがいなさをとてもはがゆく感じるところもある。しかしだからこそ愛するべき右近が描かれているのだと思う。
この人物を「聖人」にしてしまうのは惜しいのかもしれない。
右近が「信仰の人」として成長する姿はこの小説の中には描かれていない。吉川英治はこの小説の続きの中でそれを描こうとしたのかもしれない。だとしたらとてももったいないことをしたと想うのである。あの「外国人の横やり」はそのチャンスを摘み取ってしまった。

私は高山右近のいくつかの小説を読んでいて、たとえば右近が秀吉の禁教令に対してどのようにそれを拒絶したのか、そこをどう描いているかに注目している。
いろいろな描き方があった。ある小説はそこに千宗易を登場させている。
小西や蒲生氏郷などと一緒に秀吉に呼ばれて、他の武将たちが信仰を捨てたのに右近は頑として譲らなかったという描き方をしているものもある。たしか遠藤周作はそういう描き方をしていた。
こういうところを読み比べると、その作家の信仰に対する見方が表現されているように想うのだ。
残念ながら、この小説ではそこまで描かれていない。もし続くとしたら、吉川英治はそこをどのように描くであろうか。

この小説の登場人物で興味深いのはイルマン・ロレンソである。
この小説の冒頭の部分で同じ船にのりあわせた右近との出会いの場面が生き生きと描かれている。ここがとても痛快なのである。
盲目の琵琶法師ロレンソが、イエス・キリストを語り、自分の信仰遍歴を語り、そしてフランシスコ・ザビエルを語っているところがとてもおもしろい。どこまでが真実でどこからがフィクションなのか分からないところが多い中でここは全くのフィクションだろうと想うのだが、それだけに吉川英治のキリスト教に対する見方がよく表れていて興味深いところである。

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