「<聴く>ことの力(鷲田 清著)」より
今、高3「いのち」というシリーズの授業をしている。それにちょっと役立ちそうな文章を見つけたので、ここで紹介しよう。
「わたしはもうだめなのでしょうか?」という患者の言葉に対してあなたならどうこたえますか?
①「そんなこと言わないで、もっとp頑張りなさい」と励ます。
②「そんなこと心配しないでいいんですよ」と答える。
③「どうしてそんな気持ちになるの」と聞き返す。
④「これだけ痛みがあると、そんな気にもなるね」と同情を示す。
⑤「もうだめなんだ……とそんな気がするのですね」と返す。
鷲田清一著「『聴く』ことの力」(ちくま学芸文庫 2015年刊)」の冒頭に書かれている。鷲田清一といえば、日本における臨床哲学の創始者。哲学対話も彼の開発ときく。
これは、中側米造の「医療のクリニック」のなかで引いているターミナル・ケアを巡るアンケートからの引用である。この調査の対象集団は、医学生、看護学生、内科医、外科医、ガン医、精神科医、それに看護師だという。
結果は精神科医を除く医師と医学生のほとんどが①を、看護師と看護学生の多くが③を選んだそうだ。そして精神科医の多くが選んだのは⑤である。
⑤は実は回答ではなく「患者の言葉を確かに受け止めましたという応答なのだと中川は言う。「聴く」というのは何もしないで耳を傾ける単純に受動的な行為なのではない。それは語る側からすれば言葉を受け止めてもらったという、確かな出来事である。
こうして「患者は、口を開きはじめる、恵田のしれない不安の実体が何なのか、聞き手の胸を借りながら捜し求める。はっきりと表に出すことができれば、それで不安は解消できることが多いし、もしそれができないとしても解決の手がかりははっきりとつかめるものである。」
聴くことがことばを受け止めることが他者の自己理解の場を劈くということであろう。……<聴く>といういわば受け身のいとなみ、それについていろいろと思いめぐらすことをとおして<聴く>ことの哲学でなはなく、<聴く>こととしての哲学の可能性について、しばらく考え続けたいとおもうのだ。
「<聴く」ことの哲学」と「<聴く>こととしての哲学」とがどう違うのか、がわたしにはわからないが、この本を読めばわかるのだろうか?