「希望の物語性」について
「希望のつくり方」を読んで学んだことがいくつかありました。
そのひとつは前述の「希望の定義」であるでしょう。
つぎに「希望の物語性」ということです。
希望がないと当初おもっていた人が、あせらず時間をかけて自分の頭で考えるうち、希望を見つけるその過程で、期せずして共通に用いる言葉がありました。それは「物語」もしくは「ストーリー」という言葉でした。人は自分の希望を真剣に語ろうとするときに、なぜか物語(ストーリー)という言葉に向かい合わずにはいられないのです。
「希望の多くは失望に変わる。しかし希望の修正を重ねることでやりがいに出会える」これが、希望の物語性についての第一の発見です。
挫折と希望は過去と未来という時間軸上は、正反対に位置するものです。しかしそれらはともに、現在と言葉を通じてつながっています。それが「過去の挫折の意味を自分の言葉で語れる人ほど、未来の希望を語ることができる」という、希望の物語性の第2の発見なのです。
挫折が希望に変わる瞬間には、しばしば人から人へ経験の伝播があるということです。
エルンスト・ブロッホは「希望の原理」のなかで、「希望とはまだない存在」と表現しました。いまだないにもかかわらず存在しているというこの表現は実に矛盾しているように見えます。しかし、「まだない」からこそ求めるべき対象として、希望は確実に「存在」すると考えるのです。
希望を矛盾しているから意味のないものと断定するのは、いささか適当ではないかもしれません。「実現」と「挫折」、「ない」「ある」など、希望は一見すると相反する内容を同時に含みうる存在であるところに特徴があります。このように相反する意味合いを同時に含む「両義性」こそ、希望の物語性の本質なのです。
最初にこの書を見たときに「希望学」なんて「学」として存在しうるのかとおもっていました。しかし、こう書き出していくとなるほど「学問的」ということがわかるようになりました。