マタイ「ぶどう園の労働者」の話し
マタイ20章1~16節の「ぶどう園の労働者」の話しは、前にも取り上げたことがあるが、イエスの教えの逆説性のゆえにもっともイエスらしいたとえ話であると思う。普通の見方ならば、この話しはえらい不公平な話しである。
このもっともイエスらしいたとえについて、どのように説教するかで、その司祭や牧師の考え方が分かるところでもある。
ところで、カトリック教会では待降節と四旬節に教会黙想会というのを行うのが通例である。今回の黙想会に来られたカルメル会の今泉神父が、講話の中でこの「ぶどう園の労働者」についてある詩を紹介された。それは、名説教で知られ、「黄金の口」「金口ヨハネ」と呼ばれた、聖ヨアンネス・クリゾストモスのお説教を紹介しよう。
さあ、心から神を愛する人々よ、この美しく光り輝く祭りを楽しもう。
さあ、賢いしもべたちよ、それぞれの喜びを手に携え、主ご自身の喜びと一つになろう。
長い断食をしっかり守ったものは、さあ、一デナリオンを受けなさい。そう、あのぶどう園の労働者たちのように。
朝六時から働いたなら、今日胸を張って当然の報酬を受けなさい。
昼十二時を回って来たのでも、何の心配もいらない。同じだけ受け取れるのだ。
午後三時になってようやく来たとしても、何を戸惑っている。さあ、この食卓につきなさい。
とうとう午後五時になるまで、重い腰を上げなかったあなたも、遅れたからといって何も怖がることはない。
そうなのだ。この宴会の主人は実に寛大で、最後の者も、最初の者と同じように迎えてくれる。
午後五時に来た者も、朝六時から働いたものと同じように憩わせてくださる。
後から来たものを憐れみ、最初から来た者も忘れはしない。
彼にも与え、それにもかかわらず行いも受け入れてくれ、志も祝福してくださる。
手がらも認めてくれ、望みも励ましてくださる。
さあ、だから、この、主ご自身の喜びに入ろうではないか。
第一の者も第二の者も報酬を受け取りなさい。
富める者も貧しい者も共に祝いなさい。
節制した者も怠けた者もこの日を喜びなさい。
断食した者も断食しなかった者も、さあ、楽しみなさい。
この宴はあふれこぼれんばかりに豊かだ。
さあみんな、飽きるほどに食べなさい。子牛はまるまる肥えているではないか。
この宴から、空腹で帰っていくものが一人でもいてはいけない。
さあみんな、この信仰の宴を楽しみなさい。この慈しみの宴を受けなさい。
誰ももう貧しさを憂てはいけない。
牢獄は打ち解けられ、すべての人が招かれているのだ。
誰ももう罪のために泣いてはいけない。
誰ももう死を恐れてはいけない。
救い主の死が私たちを生かしたのだから。
松島雄一訳を一部言葉を変えて朗読しました。
このぶどう園の農場主はえらい気前のいい方であるようだ。