キリスト教というOS(operation system) の便利さ
竹下節子著「渡り鳥のキリスト教」(フリープレス刊 2019年)という本にこんな一節があった。「たしかに」と妙に納得した。
キリスト教というOSは弱者にやさしいし、歴史上、いろいろなバグやプログラムのエラーや齟齬も経験してきたけれど、それをフィードバックしてバージョンアップする努力を惜しまずに生き延びたし、なかでも老舗のカトリックは、マルチナショナルで開発費用も潤沢だったからか、秘跡やら奇跡やらのアプリが豊富で、カスタマイズもしやすくできているから「便利」だと思う。信仰は知性と対立するものでなく、人が自由に飛翔するための両翼のようなものだ、とは今のカトリックの見解だ。
で、カトリックはいろいろな意味で「便利」なのだが、それでも、実際に洗礼をうけないと分からない「便利さ」がひとつある。それは「死が怖くなくなる」ためではなく、「生きる」ためであり、「生かす」ための便利さだ。
何を、誰を「生かす」のか、という答えは、書かない。本当の敵は、イスラムではもちろんない。最大の敵は「不寛容の精神」なのだ。スイスの民主主義は「不寛容」というウィルスに感染した。宗教原理主義、カルト、独裁政治、全体主義はもちろんこのウィルスの巣窟だし、ナショナリズムやエコロジーから嫌煙運動まで、このウィルスに感染すると、人間性が損なわれていく。人間に固有な「自由」という輝きは失われる。
不寛容の精神は宗教だけではなく、すべての人を蝕む。ヨーロッパの歴史的文化的構築物としてのキリスト教もまた、不寛容の精神に何度も襲われた。民主主義でさえ、自由主義でさえ、この精神に襲われるのである。
竹下節子著「渡り鳥のキリスト教」(フリープレス刊 2019年)
本来ならば、真の宗教者は常にこのウィルスと戦わなくてはならない。民主主義や平和な世界を望む、すべての人が撃退に協働すべきウィルス。このウィルスが自由を奪い、人間性を奪う。
自由も人間性も、他者と連動してこそ意味を持つのだ。不寛容はそれだけで緩慢な自殺である。
私も宗教においても政治においてももっとも忌み嫌っているのは「自分だけが正しい」とする宗派性、党派性であると思っている。不寛容というのもこの宗派性、党派性と表裏一体なのだろう。
宗教や政党には「この自分だけが正しい」とする宗派性、党派性を取りのぞけないものであろうか。
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玉谷直実先生のFacebookからこの記事を知りました。
私はいわゆるエゴサーチは一切しないし、ブログのコメント欄も閉鎖しているので、私のメッセージがどの程度お役に立てているものか定かではありません。特にコロナ禍でもう1年半も日本に帰っていず、真生会館での読者の方とのつながりもないので、いろいろ心もとなく思っていました。
そんな時にブログから編集されたこの本を引用してくださって「妙に納得」してくださったことを知り、しかも復活祭の週末だったので嬉しくなってコメンとさせていただきました。
このOSの記事は覚えていませんでしたが、この記事で読んで、自分でなるほどなあ、と思った次第です。
明るい気持ちになれました。
ありがとうございます。
これから復活徹夜祭に出かけます。
土屋さまと生徒さんたちのためにお祈りしますね。
Happy Easter!