「道徳」「倫理」と「宗教」の授業の違い
今日(4月25日)の清泉女子大学の「宗教科教育法」の時間は「宗教の授業で何を教えるのか」というテーマで行いました.
今年の履修生は実は2名でした。この科目を担当して今年で6年目ですが、今回がもっとも少なかったです。1年目は5名、2年目は10名、3年目は14名、4年目は8名、昨年は6名でしたが、いまだ「宗教」を担当する教員になった人がまだでていないというのが現状です。
あまりに受講者が少なくはりあいがないので、できるだけブログと Facebook で公開することにしました.
まず、中学「道徳」と高校公民科「倫理」の「学習指導要領」を読み合わせました.
中学の「道徳」学習指導要領には、「内容」の3に
3.主として自然や崇高なものとの関わりに関すること。
⑴ 生命の尊さを理解し、かけがえのない自他の生命を尊重する。
⑵ 自然を愛護し、美しいものに感動する豊かな心を持ち、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める。
⑶ 人間に弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて、人間として生きることに喜びを見出すようにつとめる。
というのがあります。この「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」というのが「神様を賛美する」ことになるのだと説明をしました。
そのあと学生たちに問いかけてみました.そのやりとりを再現してみましょう。実際よりもよく書かれているのですが…………。
「じゃあ、公立でする「道徳」「倫理」の授業とカトリック学校の「宗教」の授業の違いは何だろうか? 宗教系の中学校では「宗教」の授業を「道徳」の授業として扱うことが認められているけれど、やはり違いはある」
学生たちの応え、
「まず第一に、聖書を読むということ」
「神様の話が出てくる所」
「祈りを教えるところ」
「そうだね。この3つがもっとも大きなところだ。では内容的にはどうかな? この3つの特徴の故に教える内容にはどのような違いがあるかな? わからないかな?」
「そういえば『宗教』には学習指導要領がないね.教科書もないし」
「道徳では愛の大切さは教えるけれど、キリスト教ではアガペ(無償の愛)をとくところかな。」
「よくわかったね。他にはこういう違いはもっとたくさんあると思うけれど」
「道徳では『いのちがもっとも大切である』と教えるけれど『宗教』では『いのちよりも大切なもの』を教えます。星野富弘さんみたいに。」
「おお、それはいい所に気がついた。『永遠のいのち』の話はもっとも宗教的だと思う。」
「福音の逆説性というのもあるよね.『貧しい人は幸い」「泣く人は幸い」なんて道徳の授業で教えたら訴えられてしまうけれどね。それに『汝の敵を愛せよ』もそうだよね。常識的には考えられないことでも『宗教』の授業でなら『偏向』といわれずに教えられる」
「じゃ『道徳』の授業では教えられても『宗教』ではほとんど教えていないことがあるけれど、気がつくかな。教えている所もあるだろうけれど、きわめて少ないと思う.」
「なんだろう? わかんな〜い」
「『愛国心』だろうね。国を愛するよりもより普遍的な人類愛は教えるけれど.国家に体する忠誠心みたいなものは教えないよね.」
「そういわれると『道徳』では社会批判みたいなことも言わないよね.社会の矛盾とか社会が持つ構造的な悪みたいなことも教えないね。『宗教』の時間ではしっかりと教えるよ.」
「『道徳』というとやはり、国が教える教科なんだよね。どうしてもそこから抜け出すことができない。」
「じゃ、次の質問だ。いま文部省では『道徳の教科化』ということを画策しているけれど、『道徳』が『教科」になるとどこが違ってくるのだろう?」
「学習指導要領と検定教科書が出現する。これまでは道徳には副読本はあったけれどね。」
「評価が付く。つまりテストをするということかな?」
「教員免許状も必要になるよね.道徳を教えることがより専門的になる。これまでは教員免許を持っているものなら誰でも教えることができた。」
「つまり、道徳を○と×で教えるようになる.善と悪を峻別するようになる。本当は善と悪の灰色状態が問題なのだろうけれどね」
「なんか、授業がつまらなくなりそう。価値観の押しつけばかりが多くなってしまいそうだから。いろいろな意見が出て活発に話し合う所が面白かったのに、これではなかなかそういう『対話』は生まれそうにないね.」
「そういう対話の中で気がつくこと、教えられることが『道徳』の授業の場合とても大切なんだよね.」
「前に述べたような『宗教』の授業でしか教えられなかったことが教えられるなくなりそう。ということはミッションスクールの存在理由にも関わってくる大切な問題なんだ。カトリック学校にはこの危機感が薄いような気がすることも問題だ」
とまあ、こんな展開がありました。
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