「シニアの霊性」体験プログラムの提案

 私の卒業した高校である栄光学園同窓会には「栄光同窓カトリックの会」という支部みたいなものがあります。カトリックの信者の卒業生の集まりです。私はここの13期生なのですが、私がもっとも若くて、古くは1期生からいます。
 このたび「栄光同窓カトリックの会」のメンバーのための黙想会を3月15日〜16日に鎌倉の十二所黙想の家で行うことになりました。
 ただし、今回は同窓会メンバーのための黙想会なので、参加のご希望をいただいてもお応えできませんが、いつか一般の方々の参加できる「黙想会」として企画できたらいいなというのが私の夢です。
 もしもこのプログラムに参加してみたいという方がおられたらコメントにお寄せください。そうしたら実現できるでしょう。
 その黙想会のために、黙想指導の神父さんに書いた提案書をこの私のブログで紹介します。黙想指導のプロである神父さんにこんな生意気な提案をすることの失礼は重々認識しておりますが、あえて提案させていただきました。

 このたびは「栄光同窓カトリックの会」の黙想会指導をお引き受けいただきありがとうございます。
 実は、私はこれには出席できないのですが、この同窓会幹事のひとりとしてこの「シニアの霊性」というテーマの黙想会を提案しました。
 黙想指導のプロである神父さまに、この黙想会に参加できない私が、こんな生意気なことを申し上げる失礼もおゆるしください。
 今度の黙想会は、ぜひ神父さまのやり方でおすすめください。
 でもどうしても神父さまにお聞きいただきたく、メールいたします。
 実はこの種の黙想会は、高齢化が進むいまの教会に必要なことだと思うのです。教会の中だけでなく、一般の人びとにも有効だと思うし、なによりも福音宣教の最も有効な手段となり得るとさえ思っています。信者でない一般の人たちにこのような「シニアの霊性」体験プログラムを提供できたら、きっと信者となる人が増えるでしょう。
 十二所の黙想の家は、これからそういうプログラムを体験できる場として、地域にそして一般の人びとに開かれていく場となるように提案したいと思っているので、今回の黙想会はそのテストケースになるかもしれません。

1,この黙想会のスタイルについて
 私は、東京で行われている「カトリック学校教員養成塾」のスタッフを務めて5年目になりますが、毎年年末に合宿を致します。そこで「自分の教員生活を振り返る」ということをします。
 たとえば「教員になったきっかけやその学校に勤めることになったきっかけ」「自分に影響を与えた先生たち」「生徒との交わりの中で得たこと」「同僚たちとの交わりの中で」「これから私のめざすこと」というテーマのもとに5つのセッションを行います。
 それぞれのセッションは、スタッフのひとりの自分の経験についての簡単なプレゼンテーション(15分程度)、1時間の個人の振り返りの時間、そして1時間の5〜6人グループでのわかちあいによって構成されています。
 1時間の振り返りの時間は沈黙でそれぞれの部屋や聖堂、あるいはその集会の部屋で行います。思いつくことをノートに書いていく人もいれば、書かないでひたすら黙想する人もいます。
 分かち合いは、その振り返りの時間で何を感じ、何に気づき、何を考えたのかということを分かち合います。先ず順番にひとり5分くらいの報告をしほかの人は聞き合います。それを一巡したら、ほかの人の分かち合いを聞いて感じたこと考えたことを今度は順番を決めずに第2ラウンドを行います。分かち合いなので、他の人の分かち合いを批判したり、注釈をくわえたり、説教をしたり、助言をしたりするのはすすめられません。
 グループのまとめをしたり、全体への発表や報告をしたりすることは必要ありません。
 じつは今度の黙想会もこのスタイルをとったらいいとおもって、スケジュールを作りました。
 スケジュールには1時間の講話、1時間の黙想、1時間の分かち合いとなっておりますが、講話に1時間必要ないと思われます。テーマの解説と具体的な作業の指示、その作業をしてみて神父様ご自身のケースについての話をしていただければいいと思います。これはあくまでも自分の振りかえりを助けるための「呼び水」みたいなものです。
 教会の黙想会の多くは、講話と黙想だけで構成されていることが多いのですが、ひどいときには「黙想会」といいながら講師の講話を聞くだけというのもあります。ここでは講話が中心というよりも、個人の振り返りが大事なのだと思います。講話はそれを助けるためのものであってほしいのです。

2.各セッションのテーマについて
 この黙想会の全体のテーマは「シニアの霊性」です。おそらく参加者の中でも私がもっとも若い世代となり、参加者の多くは70代となるはずです。いまふうにいうならば「終活」ですね。そんなシニアのためのテーマは次の三つになるのではないかと思うのです。
 ひとつは自分のライフストーリーを振り返る。人生の総決算とでも言えるかもしれません。
 他のひとつは「死の準備と永遠のいのち」ということでしょう。
 そして3つめは「残りの生をどう生きるか」
 黙想者はそれぞれのテーマについて、もっとも応えやすい問いかけを選んで、それについてあれこれと思い巡らしてみて、神さまと対話してみるというのが振り返りの時間です。思い浮かべたことや気がついたこと、感じたことなどをノートにメモしておくといいでしょう。

1)自分のライフストーリーを振り返る
自分に与えられた恵みと逃してしまった恵み
自分の人生のラッキーだったこととアンラッキーだったこと
私がこれまでにやってきたこと、やってこれなかったこと、あるいは成功と失敗をふりかえる
私の人生のターニングポイント、選択の歴史
クリスチャンとして信仰をもって生きてきて、損をしたと思うこと、得をしたと思うこと
どういう呼びかけにどう応えてきたのか、あるいは応えてこなかったのか?
人生を生きてきての誇りと悔い
自分の自慢、手柄、功績のリストづくり
自分の遺産のリスト 残しておきたいもの、何を遺産として残したいか、誰かに受け継いでほしいこと、自分の記念館を作るとしたら、何を展示し、自分の生涯をどう紹介するか。
自分の「ライフワーク」や自分史の目次づくり
もっとも愛する人へ、毎年命日になると配信される手紙を書く。
自分の人生の意味を考える。ライフストーリー、人生シナリオ。このストーリーやシナリオの作者である神さまは、主人公のあなたをとおして何をお伝えになりたかったのか?

2)死の準備と永遠のいのち
 私は個人的にこのテーマを黙想するのにもっともいいのは、デ・メロ神父の提唱する「臨終と葬式のエクササイズ」だと思っています。ご存知だと思いますが、これは「東洋の瞑想とキリスト者の祈り (アントニー・デ・メロ 著 裏辻 洋二 訳 女子パウロ会刊)に掲載されています。「幻想を用いて祈る」という章に紹介されている一連の黙想です。

●生命(いのち)その真価 
●視力を失う自分を想像する
●全身麻痺でベッドに横たわっている自分が、徐々に麻酔から覚めていく自分
●病院で入院中の自分
●体よ、さようなら
●あなたの葬式と埋葬

 私はこのエクササイズをCLCのなかまとともに過去に体験したことがあります。素晴らしいエクササイズでした。とくに「体よ、さようなら」でイエズスがそこにおられて「体の各部分に、至(注・私の名前)の手よ、至のためによく尽くして働いてくれた」と手に感謝している部分を想像したときに涙が止めもなく流れてきたのを思い出します。
 この黙想会では聖堂で実際にこれをガイドしてくださるのが一番いいのではないかと思っています。もっともこのエクササイズに抵抗して祈れない人も出てくるでしょうが、そこをうまくガイドしていただいて、このエクササイズをしたあとに分かち合うのは素晴らしい信仰体験になるはずです。
 ここに現代的でほんものの『霊操」のエッセンスが込められているような気がしますが、いかがでしょうか?

3)残りの生をどういきるのか?
 これも具体的なリストをつくる作業として行えばいいと思います。
●死ぬまでにやっておきたいことのリストづくり ともかく思いついたことを箇条書きにしてどんどんあげていきます。行きたいところ、会っておきたい人、体験しておきたいこと………などを思いつくままにあげていきます。できるだけたくさんリスとしたら、それを読みかえしてみます。そのなかで何を優先するのか、明日にでもすぐにできることは何か、何から手をつけていくか、順番をつけてみましょう。これは簡単にできそうということ、これはムズカシイということ、後まわしにしそうなことに印をつけてみてください。
●今からでもいや今だからこそできる、あるいは私だからこそできる「人のため社会のために今の自分にできること」をあげてみる。
●遺言として、信仰を子どもや孫たちにどう伝えるか

 ながながとお読みいただいたことを感謝いたします。これをお読みになって、お感じになられたこと、お考えになったことを伺えたら幸いです。
 黙想指導のプロである神父様にこんな生意気なことを申し上げる失礼をかさねがさねおわび申し上げます。
 今度の黙想会はどうぞ神父さまのお望みどおりにおすすめください。実りある黙想会になるようにお祈りしています。

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