復活したイエスがペトロに3回「私を愛しているか?」ときく

今回の巡礼で、ミサをあげたところの一つにガリラヤ湖畔のペトロの首位権教会があった。
ここは、復活したイエスがペトロに指示して釣った魚を焼いて弟子たちと朝食をしたところを記念して作られた教会である。この岩の上で魚を焼いたというその岩が残っていた。
その朝食の後にイエスがペトロに3回「あなたは私を愛しているか?」と聞く。ペトロは3回とも「私があなたを愛していることはよくご存知でしょう」と答えるところがある。ペトロがそう答えた後に「私の羊の世話をしなさい」とイエスはいっている。
この「私の羊の世話をしなさい」といわれているところから、ペトロを教会のリーダーとしての首位権を確認した箇所である。
ちなみに、ここともう一つペトロの首位権を認めたところがあるのだが、それについては次に述べようと思う。

ガリラヤ湖畔でのミサ、後方にイエスとペトロの愛を確認している像がある。

巡礼ガイドの河谷さんが、ここのところをこう解説してくれた。
イエスは一度目の「私を愛するか?」という質問の時に、アガペオーという動詞で聞くのだが、ペトロはフィレオーという動詞で答えている。
二度目も同じで、イエスはアガペオーと聞くのに対して,ペトロはフィレオーと答えるのである。
ところが三度目、イエスは今度は「フィレオー」で「私を愛しているか?」と聞くのである。イエスは三度目に「愛のレベル」を下げて聞いているわけであり、ペトロはあいかわらずフィレオーと答えているのである。

アガペーというのは、神の愛のことで、無償の愛という意味で福音書では使われている。これに対して「フィレオー」は友愛を意味していて、ギリシャ語ではもっともよく使われる動詞であろう。
なぜペトロはアガペオーではなく、フィレオーで答えたのかなぜイエスは3回目に愛のレベルを下げて聞いたのだろうか? このことはどう解釈したらいいのだろうか?

聖書協会訳ならびに新共同訳聖書の日本語では、いずれも「愛しているか」で、統一されているのだが、たとえばリビングバイブルでは「アガペオー」は「愛しているか?」に対して、フィレオーは「あなたの友」と訳している。つまりこの動詞を区別して訳しているのである。Living Bible の英語版でも「Do you love me?」に対してペトロは「You know that I am your friend.」と答えている。
山浦さんの「ガリラヤのイシュー」では、イエスの問は「お前はこの俺大事に思っているか?」ときき、ペトロは「この俺はお前さまに惚れておりぁす」とこれも区別して訳している。三度目にイエスは「お前はこの俺に惚れこんでんのが?」と聞くとペトロは「俺がお前さまに首ったげなのァ知ってのとおりでがんす!」と答えている。さすが山浦さん、ちゃんと区別して訳している。

新共同訳などでは、どちらも「愛する」と訳しているので、ここが違う動詞であることは分からないわけであるが、ここは原文に忠実に訳語を変えて訳したほうがいいと私は個人的に思うが、みなさんはどう思われるだろうか?

この話は神学講座で聞いた記憶があるが、誰が述べたことかは覚えていない。それを今回のガイドさんの河谷さんが説明された。河谷さんはとてもよく聖書を読み込んでいるとあらためて尊敬した次第である。

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