どうか私が話さないでいることを聴いてくれ

教会で行っているキリスト教入門講座で、「聴くこと」というテーマの日につぎのような詩を読む。
グリフィン神父のテキストにあった詩で原作者は不明であるが、 「内なる子どもを癒す—アダルトチルドレンの発見と回復 」(チャールズ・L. ウィットフィールド (著), Charles L. Whitfield (原著), 斎藤 学 (翻訳), 鈴木 美保子 (翻訳) )という本にも引用されていた。以下の訳はこちらの書によるものである。

「どうかわたしが言っていないことを聞いて」

 私に騙されないで。
 私がつくろう顔に騙されないで。
 私は仮面を、千の仮面を被っているから、それを外すのは怖くて、
 どれひとつとして私じゃない。
 うわべを飾るのは、第二の習性となった技巧、
 でも騙されないで、
 お願いだから騙されないで。
 あなたに、私は大丈夫という印象を与える、
 すべては順調で、私の内も外も静かに落ち着いているという、
 自信が私の名前で、クールなのが払のゲームといった、
 水面は穏やかで、私は指揮権を握っているといった、

 私は誰も必要としないといった。 でも私を信じないで。
 表面は穏やかに見えても、表面は私の仮面、
 つねに変化し、つねに姿を隠す仮面。
 その下に安心の字はない。
 その下には混乱と恐れと孤独が居座っている。
 でも私はそれを隠す。誰にも知られたくない。
 
 私の弱みや恐れがむき出しにされると考えるだけで、私はうろたえる。
 だから私は血迷ったように隠れ蓑を付ける、
 何気ないふうな、洗練された見せかけの仮面を、
 うわべを飾る手助けをしてくれる、
 見抜いているといった眼差しから私を守ってくれる仮面を。
 でも、そんな眼差しこそが私の救済。
 私の知る唯一の希望。
 つまり、もしその後に私が受け入れられるのであれぱ、
 もしその後に愛があるのであれば。
 
 それは、私を私自身から解放してくれる唯一のもの、
 私の自分で築き上げた牢獄の壁から、
 私があんなにも丹精込めて作った砦から。
 それこそが、私が自分自身に確証できないものを、
 確証してくれる唯一のもの、
 私にもじつのところ何らかの価値があるのだと。
 でも私は、このことをあなたに言わない。
 あえて言わない。怖いから。
 私はあなたの眼差しの後に受け入れが、
 その後に愛が伴わないのではと恐れる。
 あなたが私を劣っていると思うのでは、あなたが笑うのではと恐れる、
 あなたの嘲笑は私を殺すのだから。
 私は、結局のところ何者でもなく、ただ駄目な人間であることを恐れる、
 あなたがそれに気づいて、私を拒否することを恐れる。

 だから私は私のゲームをプレイする、命がけの、扮装ゲーム、
 表に確信のうわべをつくろい、
 内なる子どもは震えている。
 そうしてきらびやかな、けれど空虚な仮面のパレードが始まる、
 私の人生は前線となる。
 私は無為に、ロあたりのよいうわべだけのおしゃべりをする。
 本当のところどうでもいいことは、全部あなたに話す。
 本当に大切なこと、私のなかで泣いているものについては、
 何ひとつ話さない。
 だから私が私の決まりきった私を演ずるとき、
 私の言っていることに騙されないで。
 どうか注意深く聞いて、私が言っていないことを聞いて、
 私が言ってみたいことを、生き延びるために言わなくちゃならないのに、
 私が言えないでいることを聞いて。私は隠れたくない。
 うわべだけのいんちきゲームはしたくない。
 そんなゲームはやめてしまいたい。
 私は本物で、自然で、私でありたい、

 でもあなたが助けてくれなくちゃ。
 あなたの手を差し伸べてくれなくちゃ、
 たとえそれが、私が一番嫌うことのように見えても、
 私の目から生ける屍のうつろな凝視を拭えるのは
 あなただけ。
 私を生に呼び戻せるのは、あなただけ。
 あなたが親切で寛容で励ましてくれる時いつも、
 あなたが本当の気遣いから理解しようとしてくれる時いつも、
 私のこころに翼が生え始める、
 とっても小さな翼、
 とってもかよわい翼、
 でもそれは翼
 私の感情にふれるあなたのパワーで、
 あなたは私に命を吹き込める。
 あなたにそのことを知って欲しい。

 あなたが私にとってどんなに大切か、知って欲しい、
 あなたは私という人間の創造者、
 そう、真面目な話、創造者になりうることを、
 もしあなたがそうしたいのならぱ。
 あなただけが、私がその後ろで震えている壁を取り崩せる、
 あなただけが、私の仮面を取り払える、
 あなただけが、うろたえと半信半疑の私の影の世界から、
 私の孤独な牢獄から、私を解放できる、
 もしあなたがそうしたいのならば。
 どうかそうして。私をやり過ごさないで。
 あなたにとってやさしいことではないはず。

 自分は役立たすとの久しい確信は、強大な壁を築く。
 あなたが私に近づくほど私はより盲目的にはね返すかもしれない。
 それは不合理なこと、だけど本に書かれている人間とは違って、
 しばしば私は不合理。
 私は欲しくてたまらないまさにそのものに対して闘いを挑む。
 でも愛は強大な壁よりも強いと人は言う、
 そしてそこに私の希望はある。
 どうかその壁を打ち壊して、
 堅固な手で、
 でも優しい手で、
 子どもはとても敏感だから。

 私は誰、とあなたはいぶかるかもしれない?
 私はあなたがよく知っている人。
 私はあなたが出会うあらゆる男だち、
 あなたが出会うすべての女たちなのだから。 

この詩を読んで何を感じるであろうか?
くどくど続くグチにつきあわされるような感じで読んでいる人もいるかもしれない。そういう「暗さ」がついている詩であるが、言っていることは実はとても深いのではないだろうか。

私はいくつもの仮面をかぶっている。でもその下にある本当の私をみてほしい。その声を聴いてほしい。
私は本当に言いたいことを言っていない。でもあなたにはその裏に隠れている本当の自分の声を聴いてほしいんだ。

私はこの詩を読んで「そういうことってけっこうあるのではないだろうか。「聴く」ということはそういうことなのだろう」と思うようになった。これを意識すると人の話の聞き方が大きく変わって来るようになったと思う。

ちなみにグリフィン神父訳はこちらにある。
読み比べてほしい。

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