「超訳 ニーチェの言葉」を読んでも

NietzcheWords「超訳 ニーチェの言葉」を読んだ。100万部も売れた本なのだそうである。
私はそういう本はめったに読むことはないし、まして自分で買うこともしないのだが、今回はある学校の公開授業に参加するときのテーマがこの本にあったので、しょうがないと思い買って読んだ。おもしろかったが、自分で金を出してまでして買うほどの本ではないと思った。図書館で100人待ちをして借りるほんである。

わたしは「倫理」の授業でニーチェも扱った。特にニーチェのキリスト教批判はおもしろいと思っている。
でもこの本は『倫理」で教えるニーチェのイメージをかなり覆すものであった。ニーチェは本当は現代の各種の啓発本、知的ノウハウ本のようにとても読みやすく、わかりやすいんだと思ったのである。

これを書いた白取春彦氏の話しも思いがけずきくことができた。これもなかなかおもしろかった。
さらにこの本の出版社「ディスカバー21」の人とも話せた。

「『ディスカバー21』といえば、むかし伊藤なにがしとかいう人が字の少ない四角い本を書いていたところでしょう?」
「伊藤は我が社の会長です」
「あの人はたしか iBD セミナーとかの自己啓発セミナーをしていた人だよね」
「よくご存知で? どうしてそれを」
「自己啓発セミナーに興味を持っていたので、あの運動は分裂して4つに分かれて、そのひとつが It’s a Beautiful Day セミナーですね」

こんな会話までしてしまった。

ところで、この本を読んでもっとも印象に残ったのは、次のようなところであった。

Wissenschaft182 本を読んでも
 本を読んだとしても、最悪の読者にだけはならないように。最悪の読者とは、略奪を繰り返す兵士のような連中のことだ。
 つまり彼らは、何かめぼしいものはないかと探す泥棒の目で本のあちらこちらを適当に読み散らし、やがて本の中から自分のつごうのいいもの、今の自分に使えるようなもの、役に立つ道具になりそうなものだけを取りだして盗むのだ。
 そして、彼らが盗んだもののみ(彼らが何とか理解できるものだけ)を、あたかもその本のなかみのすべてであるというように大声で言ってはばからない。そのせいで、その本をまったく別物のようにしてしまうばかりか、さらにはその本の全体と著者を汚してしまうのだ。
                   「さまざまな意見と読書」

う〜ん。なるほどね。確かに私もここに書かれている「泥棒」の読み方をしている一人だと思い当たった。
でもこれって、この本にもいえることではないか。ニーチェの言葉を文脈から切り離してアフォリズムにしてしまっていいものかどうか。
わたしは、こういう『泥棒の読み方」も悪くないと思うのだが………。

もうひとつ。この問いかけはいい問いかけだとおもう。。

Wissenschaft183 読むべき書物
私たちが読むべき本とは、次のようなものだ。
読む前と読んだあとでは世界がまったく違って見える本。
わたしたちをこの世の彼方へと連れ去ってくれる本。
読んだことでわたしたちの心が洗われることに気づかせるような本。
新しい知恵と勇気を与えてくれる本。
愛や美について新しい認識、新しい眼を与えてくれる本。
                    「悦ばしき知識」

ニーチェの述べて答えもさりながら、この問いかけはとてもいい問いかけだと思う。
私だったらどんな答えを出すだろうか。そして私は出会ったこのような「読むべき本」とはなんであろうか。
こう考えていくと想像力がどんどんと広がっていく。
この答えにはいつか自分も答えなくてはならないだろう。それまで気のきいた答えを探してみようと思う。

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