「出星前夜」にみる島原の乱

shusseizennya「出星前夜」(飯嶋和一著 小学館刊)を読んだ。500ページを超えるぶ厚い本だった。けっこうおもしろかった。原城に立てこもるまでのキリシタン農民たちの思いがよく描かれていると思った。

あるブログにはこんな紹介があった。

島原の乱といえば天草四郎であり、キリシタン信仰であり、禁教令に反抗した宗教一揆と、その程度の知識でしかなかった。
島原の乱とはなんだったのか?
著者はその根源にさかのぼる。確立の途上にある幕藩体制。その新たな秩序にどうしても耐え切れない地方の生活者。両者の基本的対立の構図が見えてくる。
また蜂起から全滅にいたる攻防の4ヶ月はどのように戦われたのか。反乱というより軍事行動に近いのだが結局は暴走。その壮絶な合戦の全貌が詳細に描かれる。
そしてこの事件にかかわる主要人物たちのそれぞれの生き様に胸を激しく突き上げられる、人間ドラマがある。
ラスト近くには涙がこらえきれなくなっていた。

ところでこの小説のなかでもっとも印象に残ったのは、原城に立てこもったときの農民たちの共同体が描かれている部分である。長くなるが引用しよう。

過酷ともいえるそれらの労働を皆が助け合い、嬉々として取り組んだ。有馬晴信の失脚以降、絶えて久しかった隣人愛を再び取り戻した。キリシトひいてはデウスのみを唯一絶対の拠り所とし、我が身を思うのと同じく隣人を大切にせよとのキリシトの教えを、そのまま実践できることの喜びに満ちていた。
飢えた者には食べ物を、渇いたものには飲み物を、身につける衣のないものには衣服を分け与えよ。病人や老人、弱き者をいたわり、流浪の者には宿を貸し、罪科を犯した者の身を引き受け、死骸は手厚く葬れ。これらの物資の求めに対して、所有する者はなき者に分け与え、助け合わなくてはならない。それらの一切はとうに廃れ、まるで逆のすさみきった憂き世ばかり見せつけられてきた。密告や嘘や裏切りが、保身出世の手段となる修羅地獄に身を置いて久しかった。ところが原城跡に一歩踏み入れた時点で、これまで当然のこととしてまかりとおってきた強勝劣敗の定理を捨て、慈悲の実践が求められる世界に立ち戻り、25年昔の倫理や美徳がよみがえった。
そしてキリシタンとしての精神を実践するための道徳律が7つ定められていた。他人によき意見を述べ、無知な者には道義をさとし、悲しむ者には慰め、罪を犯す者は諫め、恥辱を受けても耐え、隣人の過失はゆるすこと。そして生きる者と死せる者、加えて迫害する者たちのためにも、キリシトを、ひいては唯一絶対のデウスを頼みにすること。
鬼塚監物らの中枢の者たちも、自らの家は自らの手で建て、食べるものも皆同じものを同じ量で分け合った。夜明けと共に起き、食事の前に、祈りと祈祷分とを唱えることから一日がはじまった。夕食後は、その日一日の良心を自ら問いただし、祈り、眠りについた。
起床から就寝までにいたる必要な時刻は、かつて有馬のセミナリオにおかれていた時計が知らせ、かつての有馬の教会堂にあった鐘が打ち鳴らされた。時計も鐘もかつて有馬晴信の祐筆であった芦塚忠右衛門がずっと地下に隠し持っていたものだった。

この文を読んで「ドチリナ・キリシタン」に書かれていた《ミセルコルディア(慈悲)の実践》の規則を思い出した。

 当時の「ドチリナ・キリシタン」は慈悲の色身(肉体的)所作として七つを掲げています。
  ①餓えたる者に食を与える事
  ②渇したる者に物を飲ます事
  ③肌をかくしかねたる者に衣服を与ゆる事
  ④病人をいたわり見舞う事
  ⑤行脚の者に宿を貸す事
  ⑥捕らわれ人の身を請くる事
  ⑦死骸を納むる事
 1633年に長崎西坂で殉教したミカエル薬屋は、ミゼリコルディアの組の会長として、この色身所作を徹底的に実践しました。
 「わたしが飢えていたときに食べさせ、渇いていたときに飲ませてくれた…」キリストへの愛を実践した
 ミカエルの殉教は、その後の潜伏キリシタンに大きな力を与えました。

この小説の作者はこの「ミセリコルディアの実践」の掟を知ってこれを書いたのであろうか。

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