「主の備えられた道を −ウガンダ医療宣教の記録」

湯河原で毎月1回「分かち合いの集い」を持っている。
この集いに毎回熱心に通ってくる方から1冊の本をいただいた。彼女はその本の翻訳者であった。
ちょっと取っつきの悪い読みにくそうな本だったのだが、せっかくいただいたので思い切って読むことにした。読むのにちょっと時間と勇気を必要とする本であるように思えた。

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内容は「政情不安定と疫病(特にエイズ)の蔓延に悩むウガンダに身を投じた英国人医療宣教師の奮闘記である。絶望的な状況にも、持ち前の楽観主義で立ち向かっていく姿に、神への深い信頼を見る。現地での生活に馴染むまでの悪戦苦闘も、ユーモラスに描く。」とホームページに紹介がある。

確かに、この本の描こうとするウガンダの現実はすさまじい。特にエイズの患者たちがどのように苦しみ、どのような気もちをもち、その周辺の人びとがエイズの患者にどういう接し方をしているかということをこの本はとてもリアルに描いている。
エイズだけでない、大虐殺の歴史、強盗、交通事故、車泥棒、役人の腐敗、医療事情、子どもの教育、呪術、協働者の死など目を背けたくなることがいっぱいある。

しかしそれなのに、この本はどこかユーモアのかおりがする。
翻訳者もその「ユーモアの香り」をできるるだけそのままつたえられるように苦労したと言っておられた。
そしてそのユーモアの背景にあるのが、やはりイエス・キリストへの信仰なのである。

この本の英語のタイトルは The Man with the Key Has Gone!
である。いったいこのタイトルは何を意味しているのか、読み進めていくうちにやっと分かった。
ウガンダで役所や商店を訪ねて用を足そうとすると「担当者が鍵を持ってどこかに行ってしまった」「明日また来てください」という二つの決まり文句にいつも悩まされるという。

緊急の医療品調達のために、何時間もドライブしてきてこの言葉をオフィスやお店で聞く悔しさといったらない。役人がこの言葉を使うだけでなく、ウガンダ人全体がこの言葉に慣れきっている。彼らがこのことに関して愚痴をこぼしているのをあまり聞いたことがない。

その言葉がこの本のタイトルになっているわけである。
これをそのまま日本語訳のタイトルにしても全く何のことやら分からないだろう。
そこで日本語のタイトルをどうするのか、出版社の担当者といろいろと検討した結果、このタイトルになったという。
エイズを初めとする現地の病者の病を治す鍵を持った人がどこかに行ってしまったという意味に当てはめているのだろうか。

こんなことが書かれていた。著者の信仰に対する態度がよく表れている。

ラザロは死んだが、イエスさまは悲しんでいるかれの姉妹たち、マルタとマリアの話に耳を傾け、一緒に涙を流された。
イエスさまは祈られ、神にラザロを死からよみがえらせてくださるようにお頼みした。
イエスさまは、あとで神がラザロを死からよみがえらせてくださるようにお頼みした。イエスさまは、あとで神がラザロを死からよみがえらせるとしっておられたのだから、マルタやマリアの悲しむ様子を傍観していてもよかったのだ。だがイエスさまはそうされなかった。彼らと一緒に泣かれた。
この主が取られた行動こそ、私たちが見習うべきだ。
私たちは生きるチャンスをもぎ取られた赤ちゃんのために泣くだけしかできなかった。イエスさまは人びとの願いをかなえてくださるお方なのだが、はっきりと分かる答えをお出しにはならない。
大事なことは、主は苦しんでいる人びとのそばから、けっして立ち去らなかったことだ。主はなくものとともに泣き、苦しむものとともに苦しみ、笑うものとともに笑った。主が取られた行動は、全世界の人間の苦しみや悲惨の前では、何ら役に立たないかもしれない。だが、主がなされたこと以外何がなしえようか?

夜中目覚めた時に神に問うた。
「神さま、私たちがこんなに苦しんでいるというのに、あなたはどこにおられるのですか?」
神さまは答えられた。
「わたしはそこにいない。だが、あなたがそこにいるではないか。」

私たちは、神さまが超自然的な方法で介入し、状況を変えてくださることを期待する。それなのに、神さまはこのわたしにそれをせよと仰せになる。さてこまったことになったぞ。

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