現代詩はなぜ難解なのか?

LanguageIn学生時代に「思考と行動における言語(S.I.ハヤカワ著 大久保忠利訳 岩波書店 1941年著 1951日本版刊)」という本をよく読んだ。おもしろかった。
この著者は日系人であるが、UCLA かどこか大学の学長をして、大学紛争の処理に辣腕をふるったというのを覚えている。

その書をとおして「一般意味論(General Semantics)」なる分野があることを知って、とても興味を持った。そのことを哲学者の市井三郎さんに話したら、「意味論というのの目的は宇宙人と遭遇したときに、コミュニケーションができるようになることだ」と教えてなるほどと思ったものである。(市井三郎さんについてはまたあらためて書きたいと思っている)

さて「思考と言語………」なる本のなかで今でも忘れられないことが二つ書かれていた。その一つが「現代詩はなぜ難解なのか?」という答えである。

人生に想像的・象徴的・観念的次元を与えるための、このようなコトバの魔術(verval magic)またはコトバの詐術(verbal skulduggery)の利用そしてそれに含まれることすべてを、詩(poetry)と呼ぶことにする。われわれは普通に詩と広告と呼ぶものを区別して述べる場合には後者(広告)をスポンサー付きの詩、前者(詩)をスポンサーなしの詩とよぶことにする。

過去においても桂冠詩人、宮廷詩人など「スポンサー付きの詩」を作る人はいた。ヴェルギリウスやテニスンは『スポンサー付きの詩人」であった。
現代において、「スポンサー付きの詩」は広告のコピーにあたる。マスコミを通じてこの「スポンサー付きの詩」が巷にあふれているのである。だから「スポンサーなしの詩人」たちはそれと差別化を図り、あえて難解な詩を書くことになってしまったのであると述べている。

スポンサーなしの詩人は、外からの要求を満足させるために書く詩人ではなく、自分自身を満足するために書く詩人へ。
ヒルヤーという詩人は現代詩人のコトバの難解さ−−かれの表現によれば「明晰さからの逃走(the flight from clarity)」−を憤慨する。現代詩の特色であるわかりにくさと絶望感とは、詩人たち自身の倫理的欠如から来ていると彼は確信する。

ヒルヤー氏が現代詩人のわかりにくさを詩人たちの倫理的欠如のせいだとして非難するのはまちがっている、と筆者思われる。かれはスポンサーなしの詩人の詩作活動が今日おかれている事情を無視している。
今日のスポンサーなしの詩人は、一般の人びとが読み聞くすべての詩が、消費財のスポンサー付き詩であるという意味論的状況のなかで仕事をしているのだ。詩の言語はたえずまた容赦なく物売りの目的で使用されており、何かを売ろうとしてように響く危険を冒さずに熱情を込めて、またうれしげに、また確信をもってものをいうことはほとんど不可能にされている。

つまり、現代詩が難解なのは、スポンサー付きの詩と差別化を図るために「明晰さからの逃亡」のためであると述べているわけである。
ここをはじめて読んだときになるほどとみょうに感心したことを覚えている。

ところでこの本を横浜図書館ネットワークで探したら、横浜市旭図書館に一冊しかなく、しかもそれは書架の奥深くにあったようなのである。時代の流れを感じてしまった。

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